細川氏の家臣たちは、城下町小倉に集住するのが原則であるが、寛永元年(一六二四)になると、知行高五〇〇石以下の者について妻子を知行所へ返し、「内作」(田畑の手作り)することが許された。そして翌年には一〇〇〇石の家臣まで在郷を許可した。その背景には、家臣財政の悪化がある。
例として、知行高一五〇石、馬廻組の永良助丞をあげると、彼は、天災によって「知行所悪しく」となり、財政的に困っているので、江戸詰の軍役を断り、知行地に住んで財政を回復させることを願った。彼の願いは藩主忠利へ差し出され、「勝手次第」として在郷が許されている(寛永四年「御印并御書出之写」)。
このほか、当時の家臣財政を示す例として、寛永元年六月の惣奉行と賄惣奉行の相談がある。それは、藩から家臣への貸付米の件であり、困窮した家臣への特別貸出のことであった。藩からの貸与米は、知行高を基準とする一定額であり、それ以上の貸与米を与えねばならない事態となっている。また同二年に、知行高三〇〇石の飯銅休斎は知行地を藩へ差し上げてきた。そこで藩主忠利は、知行地が悪いのか、財政困窮なのか、あるいは病気によるのかを尋ねるよう指示している。すでに家臣側から知行地の経営を放棄してきており、そこには知行地経営や財政困窮の問題があった。
このような状況は中下級の家臣ばかりでなく、重臣にも及んでいた。寛永元年に家老の長岡式部少輔・有吉頼母佐は、長岡右馬介(知行高三二〇〇石)の救済を藩主へ依頼した。忠利の返答には、「ふひん千万」ではあるが、仕方ないとあり、具体的な対策を講じていない。しかし重臣層の困窮を放置することもできず、翌年には米の貸与を行っている(「松井家先祖由来付」)。
家臣が困窮する原因は、軍役奉仕と知行地の問題に大別できる。例えば知行高七〇〇石の芦田与兵衛は(寛永三年「日帳」『福岡県史』近世史料編)、寛永三年(一六二六)まで藩から米を借りることなく暮らしてきたが、旱魃(かんばつ)と江戸参勤の勤めにより、借用せざるをえなくなっている。藩による家臣への貸付米は、救恤(きゅうじゅつ)的な意味とともに、利息米の取得を目的としており、三~四割を標準とし、なかには五割に及ぶものもあった。