重臣の再建計画

288 ~ 292 / 898ページ
 知行高二〇〇〇石の志水伯耆は、寛永二年(一六二五)十月、自らの財政再建計画を立て、惣奉行に提出した(寛永二年「御印并御書出之写」)。この計画は受理され、実行された。どのような再建内容であったか、寛永二年度分から見ていく。
 彼の収入は、小物成が藩への上納だったので、本年貢一二五七石余(延米・口米込み)である。年貢率四九%余は、蔵入地と比べて大きな差があるわけでない。支出総額は一九七二石余だから当然赤字である。その不足分は、他所よりの調達を予定している。
 支出の内訳は「御懸り米」八六石余、「御懸り銀」一三七石余のほか、借用分の藩米八四〇石、「江戸借金」二八八石、「袖判」による借銀(袖判による借用先の多くは京都商人)である。「御懸り米」、「御懸り銀」は、藩から家臣団へ賦課される米銀であり、知行高に応じて課されたと思われる。その額は一定しておらず、志水の場合は両者を合わせると、寛永二年-二二三石余、三年-八〇石、四年-一六〇石、五年-八〇石だった。細川氏はこれらの賦課銀米を厳しく取り立てており、納入が遅れた者には四割の利息を付けて徴収した。
 この年の支出計画は、賦課銀米の納入や借用分の返済のみで、志水の生活費を計上していない。彼の生活費は、寛永二年一一月から四年暮れまで、藩の賄いによっていた。
 志水が借用した藩の米は、六〇〇石で利息四割である。江戸での借金は元利合わせて九六両、大坂相場で米に換算して二八八石である。これは小倉から大坂へ廻米し、その販売代金での支払いを予定している。袖判による借銀六貫目は元和六年の借用であり、一割七分の利息で四年間の複利計算をすると、元利合計一一貫二四三匁余となる。これも大坂廻米による支払いであり、米にして五六二石余となる。
 「袖判(そでばん)」とは、藩主忠利の花押を据えた借金証文のことである。細川氏自身も多数の袖判を発行して、京都商人などから借り入れており、特定の家臣へも袖判を与えていた。元和六年にこれをもらっていた志水は、再び寛永二年に袖判の発行を受け、不足米を調達している。
 袖判によって上方で借りる銀二貫目余は、不足米七一五石余の調達に充てられ、「百目に付き六石替え」だった。これに対し、大坂の相場は「石に付き二十目宛、大坂双場にして」と記されており、前者は小倉の米相場と考えられる。志水は、不足米の調達方法を上方での銀借用-小倉転送-米購入としている。両相場を比較すると、
 大坂相場……銀一〇〇目に付米五石(米一石に付き銀二〇目)
 小倉相場……銀一〇〇目に付米六石(米一石に付き銀一六匁六分六厘六毛)

となり大坂の米価が高い。当時の米相場は、地域や時期により大きく変動しており、地方米価は大坂に比べて一般に安かった。
 志水の再建計画は相場の違いをうまく利用しており、大坂廻漕分の九八七石余を小倉で売るより、運賃を差し引いても銀二貫三〇四匁余の増収となる。また不足米の調達には、上方で借銀して小倉へ転送しなくても、直接に上方で借銀して返済する方法や、小倉での米借用も考えられるが、いずれも米銀の利息差・米価格差から志水計画書の方が有利である。
 
表1 志水伯耆の財政再建計画
寛永二年収入1257(石)732知行高2000石、高につき4つ9分1毛(49.01%)、延米・口米込み
支出1972.80812運上米・他借米共に
内訳840御借米(藩米)、元米600石、利息4割
86.2御懸り米
137.2御懸り銀2貫744匁、代米につき20目宛、大坂相場にして
288江戸借金元利96両、銀にして5貫760目、1両につき60目替え、石別20目宛、大坂相場にして
562.16615元和7年暮れ、御袖判にて6貫目借用、4か年利息1割7歩にして、元利11貫243匁3分2厘3毛の代米、石につき20目宛、大坂相場にして
59.24197上3口(987石3斗6升6合1勺5才)の運賃、6歩にして
不足715.07612銀にして11貫917匁9分3厘5毛、但し100目につき6石替え
寛永三年収入1257.732知行高2000石の年貢・延米・口米
支出901.14573運上米・他借米共に
内訳744.66578寛永2年の残米、1割7歩銀にて買い取り返上、元利13貫943匁9分8厘4毛の代米、石につき18匁、大坂相場にして
46.66578上の運賃米、6歩にして
80御懸り銀代米、御懸り米共に
356.58627寛永4年の「借付」(貸し付け)分
寛永四年収入1756.95278寛永4年の年貢他、「借付」(貸し付け)米の取り立て
内訳499.22078寛永3年残米の貸し付け、利息4割
1257.732知行高2000石の年貢・延米・口米
支出819.65184運上米・他借米共に
内訳160御懸り銀代米、御懸り米共に
448.8先年の他借米、元米にて返弁分
198.91683先年の他借銀3貫580目5分3毛の代米、石につき18匁宛、大坂相場
11.93501上の運賃米、6歩にして
937.30094寛永5年の賄い米、貸し付け米
寛永五年収入2355.71012 
内訳535.6081寛永4年残米
401.69284寛永5年春、貸し付け米
160.67718利息(4割)米
1257.732知行高2000石の年貢・延米・口米
支出857.608 
内訳42.54味噌・醤油・炭代
53.268紙・油・薪・屋敷繕い代
244.8上下91人の賄い代、馬2匹の飼料共に
195召し使い申す者77人の取り替え、1人につき2石5斗宛、1人は5石
242召し使い申す者の切米、貸し付け米の残分
80御懸り銀代米、御懸り米共に
1498.10212 

 寛永二年度の返済計画をまとめると、①返済すべき借銀米のうち、藩・江戸・京都の借用分が優先的に返されており、それ以外の借用分は同四年に回されている。②返済計画が大坂・小倉の米価格差、米銀の利息差を考慮してたてられており、米を大坂へ運ぶだけで一石当たり銀二匁余の利益を生む。③不足米の調達には、忠利から袖判借状が発行されている。④年貢米のすべてが返済に充てられ、志水の生活は藩の賄いによった。
 次に、寛永三年の再建内容を見る。収入は前年と同じく一二五七石余、支出合計は九〇一石であり、残米三五六石余が生じる。この残米は貸付に回され、四年にはその元利を収入に見込んでいる。残米の貸付は、志水が直接に貸付けるのでなく、藩を仲介としたものであり、利息四割であった。支出の内訳は、藩の賦課銀米八〇石のほか、前年の不足米調達のために借用した上方借銀である。元銀一一貫九一七匁余、利息一割七歩を付けて一三貫九四三匁余となる。これも大坂廻米(七七四石余)-換銀による支払いを予定している。
 寛永四年の収入は、年貢と貸付米によって一七五六石余を見込んでいる。支出合計は八一九石余、残米九三七石余は再び貸付ける。さてこの年には「先年の他、他借米」と「他より借銀」の返済がある。両者は、すでに返した江戸・京都・藩からの借用分以外と思われ、多くは領内商人から借入れたものであろう。
 寛永五年の計画を見よう。この年から藩の賄いは終わり、前年の残米で生活する。残米九三七石余は、四〇一石余を貸付けに回し、五三五石余を「賄い米」とする。「賄い米」は味噌・醤油代や飼料代、家族・家臣の必要経費を含む。同年には借銀米の返済も完了し、収入二三五五石余に対し、支出は八五七石余であり、一四九八石余が残る。この残米をもって、同六年以降は自ら暮らしていく。
 志水の計画は実行されたが、財政回復したかどうか不明である。とくに寛永三年には、旱魃により細川領全体で八万石の被害が出ている。さて、寛永五年の計画内容から志水家の年間生活費が分かる。家族一四人、家臣・奉公人七七人、馬二疋の最低生活費は米にして七七七石余である。藩からの賦課銀米を八〇石として加えると、年貢収入の六八%に達する。この数値は細川氏への軍役奉仕を入れておらず、参勤供奉や普請役などが課されると、その割合は大幅に高くなろう。したがって、再建計画の重要なポイントが残米の貸付けにあるように、同六年以降、志水は自らの力で利殖活動を続けていかなければ、その再生産は覚束なかったことになる。
 家臣の個別的な利殖活動は明らかでないが、細川氏について述べると、代替わり後の元和七年、忠興から忠利へ「米が余れば多少によらず貸し付けるように」と、家臣への貸付を勧めている。また寛永三年(一六二六)には、旱魃による米不足から、細川氏は米二〇〇~三〇〇〇石を町方へ貸付け、その利米で上方に詰める家臣たちの給与を捻出しようとしている。