また寛永三年(一六二六)、沢権七(知行高一五〇石、側小姓)は「知行悪しき」ことから上方供奉を断り、在郷したいと言ってきた。同日には、惣奉行を勤めた横山助進も同じ要求を出し、両者とも許可されている。これら軍役を忌避する家臣への対策として、寛永四年「奉書」には、
一 | 、最前も仰せ出され候、役儀ならざる者は知行を上げ候へと仰せ出され候、いよいよその分に申し渡すべき旨候、殿様より召し上げらるにてもこれなく候、上げ候はば御請取なされ、公儀御役儀は少も御かけなされまじく、御意の事 |
とある。藩主忠利は、軍役遂行のできない者の上知を定める。ただし知行地を「召し上げ」るのでないと定められている。つまり、知行地を一時的に藩が管理することであり、「御蔵納同前」と呼ばれている。藩の代官が知行地を管轄し、口米や庄屋給なども蔵入地並みに行われている。
このような上知は、細川氏の熊本移封後にもみられ、財政逼迫した家臣が知行地を藩に預けることをいい、その間は軍役を免除し、財政規模を縮小させて借財を返させた。
家臣たちを困窮に導く原因の第一は、藩主への軍役奉仕にあるが、それとともに当時の村落状況が大きく規定した。細川領の村々では農民が決して定着しておらず、激しく動いており、そうした走り者の多発が知行地経営に大きく影響を与えていた。寛永三年(一六二六)に藩主忠利は、経営困難となった知行地を代官の管理下におくことを定めた(寛永三年「奉書」)。原因は、家臣のみで「百姓走り候跡の田地」を維持できなくなったからである。家臣たちは走り者の跡地に新百姓を仕立てたり、庄屋に「請作」させたり、また手作りして耕作を維持しようとするが、独自に対応できない事態となっている。走り者の頻出による知行地経営の悪化が、家臣の財政困窮を招き、それを解消しようと年貢増徴を強行すれば、走り者が多発するという悪循環をなしていた。