人口増加対策

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 慶長七年(一六〇二)に任命された細川領の郡奉行は、元和期の者と比べてはるかに大身の家臣であり、しかも支城を預かる者たちだった(表2)。その職務は、代官・給人の「善悪」監督、井堰・荒地・新地改め、犯罪取締まりなどのほか「失人(うせびと)可被付立事」だった(『綿考輯録』)。「失人」調査は走り者の多さによる。慶長八年三月の忠興書状には、「今度郡奉行を出し候につき、百姓満足かりうせ人大略帰り候由、左様にこれあるべく候、それにつき田畑開き」とあり(同前)、彼は郡奉行任命による農村支配の安定が走り者を帰村させ、そのことによる耕地開発を予想して「満足」という。入国当初の細川家にとって、農民の走りなどによる田畑の荒廃は重大問題であり、小倉在城時代を通して積極的に耕地の開発が進められた。
 
表2 慶長~元和期の郡奉行
郡名慶長7年慶長17年元和7~8年
規矩魚住市正 大隅市守1,500石平井五郎兵衛(500石)・吉田茂左衛門(300石)
田川中島左近 益田蔵人6,100石向四郎左衛門(300石)・山本次郎右衛門(200石)
京都長岡肥後守6,000石小谷又右衛門 (京都・中津)宮部久三郎(200石)・佐方少左衛門(200石)
上毛加々山隼人6,500石(上毛・築城)堀江半兵衛(300石)・佐藤半助(150石)
下毛加々山隼人木村九郎兵衛(150石)・入江仁兵衛(250石)
中津松井佐渡守25,994石長岡武部少輔25,994石
築城(史料上は木付と記す)-
宇佐長岡武蔵守15,000石長岡内膳正15,000石財津惣左衛門(300石)・上田忠左衛門(200石)
国東魚住加賀守 中路周防 田中与左右衛門(200石)・佐田五郎左衛門(300石)
速見杉生左兵衛長岡式部少輔25,994石井上六右衛門(知行高不明)
「ふんこ二郡之内、蔵ての郡」とあるが、速見郡の誤記と思われる
(注)慶長7年分は『綿考輯録』より、同17年分は「豊前国小倉世間取沙汰聞書」(「毛利家文庫」山口県文書館所蔵)より、元和7~8年分は、同7~8年『豊前御侍帳』より作成する。

 開発の推進は必然的に耕作労働力を必要とする。慶長一五年(一六一〇)の開発奨励令では他領者の移入を歓迎していた。また、寛永元年(一六二四)には次のように定められている(元和十年「御印写」)。
 
 元和九年より以後、牢人百姓は勝手次第に至り申すべく候、永作の百姓仕るべくなどと書者候はば、各別たるべく事  御印
、他国より牢人参り、落ち付き申す所に一両年もまかり居り、その所勝手悪しく御座候故、わきの村へ参るべくと申す時、その落ち付き候村よりかまい申し候はば、自然又他国仕る事も御座あるべくと存じ奉り候、いかが仕るべく候哉の事

 これは、他領からきた「牢人(ろうにん)」の領内移動についての伺いと藩主の指示である。藩主忠利は、移入者が再び他領へ走ることを防ぐため、元和九年(一六二三)以降に入国した「牢人百姓」の領内移動を勝手次第とする。これによって他領から細川領へやってきた者たちは、その村の条件が悪ければ別の村へ移住することができた。ただし「永作の百姓」をするという書き物をした場合は別だった。牢人は俸禄を失った武士だけでなく、居村を離れた百姓も含む呼称であった。
 江戸前期における人口増加策は、他領国からの走り者の招き入れのほか、自領民の他出禁止、すでに他領へ走っている者の呼び戻しによって行われる。細川領の要所には「人留(ひとどめ)」を配置して他領への走り者を取り締まり、元和七年(一六二一)には他領に居住する者の帰国を勧める高札を建てた。それには次のように書かれていた(「米家旧記録」)。
 
 今度、御家督御請取なされるに付き、御国中の侍・百姓に至るまで他国仕り候者どもまかり帰るべく候、深き曲事これある由主人申すにおいては、□御奉行聞き届け何方へも遣わすべく候、帰参仕り候上は御成敗なされまじく候由仰せ出され候条、早々還住仕るべきもの也、仍って執達件の如し
元和七年八月朔日
小笠原民部少輔
長岡式部少輔

 家督を継いだ細川忠利の小倉入城は、元和七年六月二三日であるから、高札は入国後すぐに建てられている。署名しているのは家老小笠原・長岡であり、内容は他領に走った「侍・百姓」を対象として、いかなる罪科の者でもその罪を免じるとして、帰国を奨励している。この後、高札の効果はあり、他領から帰ってくる者がいた(元和七~九年「立御耳工事目安の写帳・相済申工事目安の写帳」)。
 
 ①元和八年二月における京都郡の伊与原村と延永村の出入は、帰国した百姓少三郎の帰属についてであった。伊与原村九右衛門は自らが養父であると主張し、一方、少三郎の出生村である延永村側は養子縁組を行っていないという。少三郎を帰国させた九右衛門の「申し上ぐる覚」によると、走り者の還住を奨励する「御札」が建てられたことにより、少三郎を捜し出し、豊後国日田の石川忠総領から連れ戻している。惣奉行・年寄衆の裁決によって、少三郎は伊与原村に落ち着くことになった。
 
 ②国東郡夷村の清六は、家臣中路周防の下人であり、元和六年の大坂城普請に人夫として登坂していたが、待遇への不満からすぐに帰国した。そして、規矩郡篠崎村十兵衛の下女とともに黒田領へ走った。元和八年正月に帰国した清六もまた、高札の情報を得て帰ってきている。
 
 ③仲津郡大坂村の弥三は、中間として住江武右衛門に奉公していた。彼は元和六年の大坂城普請のとき、京都へ走ったが、同九年に帰ってきた。彼の「申し上ぐる覚」から帰国理由をうかがうと、
 
、御国より他国へ走り申す者、御国へまかり帰り候はば、何たる儀をも御ゆるしなさるべきとの高札、御立てなされ候由承り及び、高札に付き御国へこいしさにてまかり帰り候事

とあり、京都にいた弥三でさえ、高札の情報を得ている。民衆レベルでの情報の広がりをうかがわせる事例であり、しかも入手した情報は正確であった。
 
 ④忠興の藩主時代に、城下町東小倉の紺屋商人が喧嘩により国払いとなった。寛永三年、その商人は肥前唐津藩に居住していたが、「御かとく以後の御高札に付き、帰参仕りたき」と、帰国を希望してきた。そして、小倉藩家老から唐津藩寺沢氏へ書状を出してもらえば、家財以下すべてを持参して帰ることができると求めたので、小倉藩の惣奉行は次のように返答した。高札により帰国するのはよいが、唐津の寺沢氏へ正式に返還を申し込めば、小倉側からも走り者を返さなければならなくなるから、難しい。高札は、細川氏が独自に建てたものであり、周辺大名と協定して建てたものでなかったのである。この商人が帰国したかどうか明らかでない。
 
 元和七年(一六二一)の高札による帰国事例は四件、寛永三年(一六二六)まで確認できる。帰国してきた者たちは、すべて罪人の追放者とは限らず、また高札にあるように「侍・百姓」身分の者たちに限定されていなかった。右の例では、百姓・下人・中間・商人の帰国、あるいは帰国希望を確認できる。他領への走り者一般を対象とする高札は、まさに人口増加のための対策であった。
 大名の人口増加要求を元和九年の細川忠興書状にみると、藩主である忠利は隠居した忠興の領地へ走った者の返還を求めたが、忠興はこれを拒否し、「その方一国に人多く置きたくと存ぜられ候ごとく、我々蔵納にも人多く置き申したく候」と述べた。藩主として細川領全体での人口増加をはかる忠利と、隠居領(「我々蔵納」)での人口増加を望む忠興の立場の違いを明確に物語っている。これは大名の領国間でも同じであり、豊後佐伯藩の慶長一三年法令には、他領者の招き入れが定められており、それぞれが人口増加を目論んでいた。「国に人多く」が大名の願望であり、さらに知行地をもつ家臣や有力農民たちも他所からの走り者を積極的に抱えていった。