慶長一四年(一六〇九)・一六年(一六一一)の「人畜改帳」は、家老松井家の松井家文書として残り、元和八年(一六二二)分は細川藩の永青文庫として残っている。豊後速見郡の村々だけを記した慶長一四年、一六年帳簿は、松井康之が預かった幕府領(由布院・横灘)と、自分の知行地(杵築)に関するものであり、松井独自の調査によるものである。帳簿の表紙に記される後藤与三右衛門は、松井の家臣である。
これに対し、元和八年の「人畜改帳」は細川小倉藩の調査によるもので、由布院・横灘を含めた全領域(但、細川忠興の隠居領と城下町・寺社領を除く)の「人畜」を記載する。これらの帳簿は、まず庄屋によって村ごとのものが作られ、それを数カ村分をまとめて手永帳簿となる。村帳簿と手永帳簿は記載形式も同じであり、一冊にまとめたにすぎない。これらの帳簿では、庄屋、本・小百姓ごとに血縁家族と名子・下人の人名、年齢、および牛馬の所有状況を記し、最後に各身分ごとの人数合計がある。しかし、郡帳簿になると記載様式は大きく異なり、郡帳簿は最後の人数合計を記すだけであり、家族構成などをうかがうことはできない。細川領のうち、規矩・田川・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐・国東郡には郡帳簿しか残っておらず、速見郡にのみ村帳簿・手永帳簿・郡帳簿が残っている。
具体例を示す。速見郡湯布院の並柳村の元和八年手永帳簿では次のようにある。
本百姓 | |||
一源右衛門 | 年五十八 | 名子与吉 | 年廿五 牛壱疋 |
女房 | 年五十五 | 女房 | 年廿三 |
男子久五郎 | 年廿三 | 名子藤次郎 | 年五十七馬壱疋 |
女房 | 年廿三 | 女房 | 年六十四 |
名子新五 | 年四十九 | ||
女房 | 年卅七 |
庄屋、本・小百姓の一軒ごとに血縁家族と名子・下人の人名、年齢、および牛馬の所有状況を記し、最後に並柳村における各身分ごとの人数合計がある。これによって、当時の家族構成を検討することも可能であるが、仲津郡・京都郡の帳簿ではそうはいかない。仲津郡節丸村の元和八年帳簿をあげる。
節丸村 | 住江武右衛門 井関伝蔵 | ||
沢村大学 | |||
高千弐百壱石九斗八升八合八勺 | 三間 | 庄や | |
一 家数七拾八軒内 | 弐拾五間 | 本百性 | |
弐間 | 牢人 | ||
四拾八間 | 名子・荒仕子 | ||
馬や共ニ | |||
男女数百五拾八人内 男八拾六人・女七拾弐人 | |||
内 | |||
三人 | 庄屋 | ||
弐拾五人 | 本百性 | ||
弐人 | 牢人 | ||
拾弐人 | 名子・荒仕子 | ||
拾八人 | 拾五ノ歳ヨリ上ノ者 | ||
弐拾六人 | 拾五ノ歳ヨリ下ノ者 | ||
七拾弐人 | 女子・女房・下女共 | ||
牛馬数弐拾五疋内 牛拾弐拾疋・馬五疋 |
このように郡帳簿では、村ごとの集計が記されるだけで、各戸の家族構成などは分からない。前掲したように、節丸村は住江・井関・沢村の三人に知行地として与えられており、それぞれに庄屋がいた。三人の庄屋のほか、本百姓二五人、牢人二人、名子・荒仕子一人などがいる村であった。仲津郡七〇カ村全体を人数について集計すると、
惣高 三万六〇三三石一斗一升八合六勺一才 | ||
惣男女 七八〇九人(男四二六五人・女三五四四人) | ||
御惣庄屋 | 四人 | |
本百姓・小百姓 | 七三一人 | |
名子 | 一二四四人 | |
御山ノ口 | 五人 | |
鍛冶 | 一七人 | |
鋤さし大工 | 二人 | |
加子 | 三六人 | |
牢人 | 七二人 | |
社人 | 九人 | |
坊主・同宿共 | 三三人 | |
かわた | 二人 | |
ひじり | 一人 | |
塩売商人 | 一五人 | |
仏師・ささらすり | 二人 | |
座頭ノ坊 | 一〇人 | |
腰ぬけ | 二四人 | |
拾五ノ歳ヨリ上ノ者 | 一〇〇二人 | |
拾五ノ歳ヨリ下ノ者 | 一〇五六人 | |
牛馬一〇三二疋(牛七六七疋・馬二六五疋) |
となる。村々には農民である百姓ばかりでなく、鍛冶・社人・仏師など多様な職業の人々が住んでいた。仲津郡の帳簿では知行地・蔵入地の別が記され、知行主の名前も記されているが、京都郡の帳簿にそれらの記載はなく、郡によって多少の違いがある。京都郡六三カ村の集計も示しておこう。
惣高 三万一三六二石五斗五升九勺六才 | ||
惣男女 五六七六人(男二九九四人・女二六八二人) | ||
御惣庄屋 | 四人 | |
本百姓・小百姓 | 六二二人 | |
名子 | 三七二人 | |
山ノ口 | 七人 | |
水夫 | 一七人 | |
鍛冶 | 一〇人 | |
坊主 | 二八人 | |
同宿 | 四人 | |
大工 | 三人 | |
神主 | 一三人 | |
山伏 | 二人 | |
牢人 | 八五人 | |
塩売 | 四七人 | |
念仏申 | 一人 | |
かわた | 一人 | |
こしぬけ | 一二三人 | |
歳拾五ヨリ上ノ男 | 九三五人 | |
歳拾五ヨリ下ノ男 | 七一九人 | |
牛馬九八〇疋(牛六三六疋・馬三四四疋) |
これら元和八年「人畜改帳」は、郡ごとに惣庄屋や花押・印鑑を捺して郡奉行へ提出され、さらに郡奉行がそれに花押と印を捺して惣奉行へ提出された。惣庄屋について検討すると、惣庄屋の管轄区域が手永であり、一〇~二〇カ村を集めた行政区域であった。これら惣庄屋は、細川氏の家臣団を記した元和七~八年「豊前御侍帳」に登録されており、武士としての扱いを受けていたことがわかる。これに記された京都・仲津郡の惣庄屋は、
(郡名) | (氏名) | (知行高) |
京都郡 | 雨窪次郎右衛門 | 五〇石 |
京都郡 | 堅嶋四郎右衛門 | 五〇石 |
京都郡 | 岩熊孫兵衛 | 五〇石 |
京都郡 | 稲光五郎兵衛 | 三〇石 |
仲津郡 | 大村二郎左衛門 | 五〇石 |
仲津郡 | 帆柱儀左衛門 | 五〇石 |
仲津郡 | 伊良原二郎兵衛 | 二〇石 |
である。彼らには知行地として二〇石から五〇石が与えられていた。このほか、「人畜改帳」には仲津郡惣庄屋として国作善七郎がいる。これは、元和七~八年「豊前御侍帳」作成時にまだ任命されていなかったことによる。これに関して、『綿考輯録』および元和七年~寛永一一年「雑事」によると、細川忠利が藩主とした小倉入城して間もない元和七年六月二四日、郡奉行は農政全般について忠利に上申した。そのなかの一つに仲津郡惣庄屋の国作に関するものがある。
当年の様子により来年申しつけるべく候 御判 | |
一 | 、同郡惣庄屋国作九郎右衛門去年相果て申すにつき、倅善七郎に庄屋仰せ付けられ候へども、五〇石の知行分去年物成下されず、当年より役仰せつけられ下さるべく候事 |
善七郎の惣庄屋任命は、忠利の肩書きから「来年」の元和八年であったことが分かる。ただし、何月に任命されたのか分からないが、元和八年六月一二日の「人畜改帳」には他の惣庄屋とともに連署している。彼の名前を記さない「豊前御侍帳」はこれ以前の成立となる。