「人畜改帳」

297 ~ 301 / 898ページ
 細川領において、当時の村落構成・家族構成をうかがうことのできる「人畜改帳」は貴重である。この史料の大部分は大日本近世史料として刊行されているが、もともとどのように作成されたのであろうか(永尾正剛「細川小倉藩人畜改帳の考察」、西南地域史研究会編『西南地域の史的展開』近世編、思文閣、一九八八年)。
 慶長一四年(一六〇九)・一六年(一六一一)の「人畜改帳」は、家老松井家の松井家文書として残り、元和八年(一六二二)分は細川藩の永青文庫として残っている。豊後速見郡の村々だけを記した慶長一四年、一六年帳簿は、松井康之が預かった幕府領(由布院・横灘)と、自分の知行地(杵築)に関するものであり、松井独自の調査によるものである。帳簿の表紙に記される後藤与三右衛門は、松井の家臣である。
 これに対し、元和八年の「人畜改帳」は細川小倉藩の調査によるもので、由布院・横灘を含めた全領域(但、細川忠興の隠居領と城下町・寺社領を除く)の「人畜」を記載する。これらの帳簿は、まず庄屋によって村ごとのものが作られ、それを数カ村分をまとめて手永帳簿となる。村帳簿と手永帳簿は記載形式も同じであり、一冊にまとめたにすぎない。これらの帳簿では、庄屋、本・小百姓ごとに血縁家族と名子・下人の人名、年齢、および牛馬の所有状況を記し、最後に各身分ごとの人数合計がある。しかし、郡帳簿になると記載様式は大きく異なり、郡帳簿は最後の人数合計を記すだけであり、家族構成などをうかがうことはできない。細川領のうち、規矩・田川・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐・国東郡には郡帳簿しか残っておらず、速見郡にのみ村帳簿・手永帳簿・郡帳簿が残っている。
 具体例を示す。速見郡湯布院の並柳村の元和八年手永帳簿では次のようにある。
 
本百姓
一源右衛門年五十八名子与吉年廿五 牛壱疋
女房年五十五女房年廿三
男子久五郎年廿三名子藤次郎年五十七馬壱疋
女房年廿三女房年六十四
名子新五年四十九
女房年卅七

 庄屋、本・小百姓の一軒ごとに血縁家族と名子・下人の人名、年齢、および牛馬の所有状況を記し、最後に並柳村における各身分ごとの人数合計がある。これによって、当時の家族構成を検討することも可能であるが、仲津郡・京都郡の帳簿ではそうはいかない。仲津郡節丸村の元和八年帳簿をあげる。
 
節丸村住江武右衛門 井関伝蔵
沢村大学
  高千弐百壱石九斗八升八合八勺三間庄や
   一 家数七拾八軒内弐拾五間本百性
弐間牢人
四拾八間名子・荒仕子
馬や共ニ
  男女数百五拾八人内 男八拾六人・女七拾弐人
        内
三人庄屋
  弐拾五人本百性
  弐人牢人
  拾弐人名子・荒仕子
  拾八人拾五ノ歳ヨリ上ノ者
  弐拾六人拾五ノ歳ヨリ下ノ者
  七拾弐人女子・女房・下女共
    牛馬数弐拾五疋内 牛拾弐拾疋・馬五疋

 このように郡帳簿では、村ごとの集計が記されるだけで、各戸の家族構成などは分からない。前掲したように、節丸村は住江・井関・沢村の三人に知行地として与えられており、それぞれに庄屋がいた。三人の庄屋のほか、本百姓二五人、牢人二人、名子・荒仕子一人などがいる村であった。仲津郡七〇カ村全体を人数について集計すると、
 
 惣高   三万六〇三三石一斗一升八合六勺一才
 惣男女  七八〇九人(男四二六五人・女三五四四人)
  御惣庄屋四人
  本百姓・小百姓七三一人
  名子一二四四人
  御山ノ口五人
  鍛冶一七人
  鋤さし大工二人
  加子三六人
  牢人七二人
  社人九人
  坊主・同宿共三三人
  かわた二人
  ひじり一人
  塩売商人一五人
  仏師・ささらすり二人
  座頭ノ坊一〇人
  腰ぬけ二四人
  拾五ノ歳ヨリ上ノ者一〇〇二人
  拾五ノ歳ヨリ下ノ者一〇五六人
 
  牛馬一〇三二疋(牛七六七疋・馬二六五疋)

となる。村々には農民である百姓ばかりでなく、鍛冶・社人・仏師など多様な職業の人々が住んでいた。仲津郡の帳簿では知行地・蔵入地の別が記され、知行主の名前も記されているが、京都郡の帳簿にそれらの記載はなく、郡によって多少の違いがある。京都郡六三カ村の集計も示しておこう。
 
 惣高   三万一三六二石五斗五升九勺六才
 惣男女  五六七六人(男二九九四人・女二六八二人)
  御惣庄屋四人
  本百姓・小百姓六二二人
  名子三七二人
  山ノ口七人
  水夫一七人
  鍛冶一〇人
  坊主二八人
  同宿四人
  大工三人
  神主一三人
  山伏二人
  牢人八五人
  塩売四七人
  念仏申一人
  かわた一人
  こしぬけ一二三人
  歳拾五ヨリ上ノ男九三五人
  歳拾五ヨリ下ノ男七一九人
 
 牛馬九八〇疋(牛六三六疋・馬三四四疋)

これら元和八年「人畜改帳」は、郡ごとに惣庄屋や花押・印鑑を捺して郡奉行へ提出され、さらに郡奉行がそれに花押と印を捺して惣奉行へ提出された。惣庄屋について検討すると、惣庄屋の管轄区域が手永であり、一〇~二〇カ村を集めた行政区域であった。これら惣庄屋は、細川氏の家臣団を記した元和七~八年「豊前御侍帳」に登録されており、武士としての扱いを受けていたことがわかる。これに記された京都・仲津郡の惣庄屋は、
 
(郡名)(氏名)(知行高)
京都郡雨窪次郎右衛門五〇石
京都郡堅嶋四郎右衛門五〇石
京都郡岩熊孫兵衛五〇石
京都郡稲光五郎兵衛三〇石
仲津郡大村二郎左衛門五〇石
仲津郡帆柱儀左衛門五〇石
仲津郡伊良原二郎兵衛二〇石

である。彼らには知行地として二〇石から五〇石が与えられていた。このほか、「人畜改帳」には仲津郡惣庄屋として国作善七郎がいる。これは、元和七~八年「豊前御侍帳」作成時にまだ任命されていなかったことによる。これに関して、『綿考輯録』および元和七年~寛永一一年「雑事」によると、細川忠利が藩主とした小倉入城して間もない元和七年六月二四日、郡奉行は農政全般について忠利に上申した。そのなかの一つに仲津郡惣庄屋の国作に関するものがある。
 
  当年の様子により来年申しつけるべく候 御判
、同郡惣庄屋国作九郎右衛門去年相果て申すにつき、倅善七郎に庄屋仰せ付けられ候へども、五〇石の知行分去年物成下されず、当年より役仰せつけられ下さるべく候事

 善七郎の惣庄屋任命は、忠利の肩書きから「来年」の元和八年であったことが分かる。ただし、何月に任命されたのか分からないが、元和八年六月一二日の「人畜改帳」には他の惣庄屋とともに連署している。彼の名前を記さない「豊前御侍帳」はこれ以前の成立となる。