「走り者」の続出

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 元和八年「人畜改帳」によると、細川領の総人口一〇万四八五八人のうち、惣庄屋七三人、頭百姓・小百姓一万二一七七人、名子九三二二人、水夫一三七人などのほか、牢人七五九人を記す。豊後国の由布院幸野村の慶長一四年「人畜改帳」に記された牢人は、
 
  一、百姓 甚九郎          夫婦
     同 荒し子          弥二郎
     同 名子  夫婦       五郎
     同 牢人  大分郡より    清左衛門尉

 
とある。豊後大分郡からやってきた牢人の清左衛門尉は、荒(あら)し子・名子(なご)とともに本百姓甚九郎に属していた。由布院の「人畜改帳」に見える牢人の出身地は、「賀藤殿内」(熊本藩加藤氏)、「海部郡」、「直入郡」などとあり、いずれも細川領以外である。彼らの多くは本百姓に属するものとして記されるが、なかには独立した存在として記されることもある。慶長一六年「人畜改帳」の並柳村乙熊は、「玖珠郡之牢人 新百姓 源蔵子乙熊」とあり、新百姓の肩書をもつ。このほか新百姓になった例として「筑前牢人」の重松十左衛門がいる。下毛郡臼木村で「二町ほと田畠を開」いた重松は、新百姓となり、細川氏から米二石などを与えられている。重松は武士的色彩の強い存在だが、「人畜改帳」に記された牢人は一人も姓をもたない。
 また寛永六年(一六二九)、豊後諸藩領から来た牢人を調査した「他国より宇佐郡へ参居申牢人御改の帳」(松井家文書)によると、「助八郎」、「与左衛門」ら姓をもたない牢人は、村から村へ三~四人の家族で移っており、農民的色彩を強くもつ。
 例えば、元和八年(一六二二)、麦の刈り取り争論から提出された田川郡金田村小左衛門の願書に、
 
、高五三石の儀、御検地御水帳名付、我等親善左衛門請け申し候、左候て、我々かちけ申し候て牢人仕り、その後中比彦左衛門作仕り候、彦左衛門もかちけ候て作付けまかりなり申さず……

とある(元和七~九年「立御耳工事目安之写帳・相済申工事目安之写帳」)。小左衛門の父親は高五三石を抱える有力な農民だったが、彼は「かちけ」て牢人しているのである。また寛永元年(一六二四)、走り者返還をめぐる木村と河島の争論で提出された惣庄屋の「申し上ぐる事」によると、当事者甚吉の親は次郎丸村の百姓だったが、事情があって「中津郡の内はなくまと申す所に牢人仕り居り申し候」とある(同前)。
 牢人とは、封禄を失った武士だけでなく、居村を離れた百姓も含む呼び方だった。細川領では、これらの移住者を積極的に招き入れていっている。
 牢人などの走り者がどれほど村へ入り込んでいるのか。寛永六年(一六二九)「規矩郡へ中国より走来男女付立の御帳」(「松井家文書」)は、慶長六年(一六〇一)から寛永六年まで、萩藩の「中国」から細川領規矩郡村々への走り者一五六二人を記し、同年の「規矩郡村々へ筑前より出来人改御帳」(同)も、同期間における福岡藩からの走り者三六八人を記す。
 両帳簿に記される走り者が規矩郡のどこへ落ち着いたかを見ると、どの村・在町へも一様に走り込んでいるわけでなく、九五カ村ほどの規矩郡において、一四カ村・在町に三〇人以上の走り者が入ってきている(ただし、これは萩藩・福岡藩からの走り者数であり、その他の藩領や細川領内での走り者もいるから、実際にはこの数を上回る)。それらは郡内の一地域に集中するのでなく、広範囲に点在する。大裏町一二〇人・田浦村七九人・至津内新町七八人・至津村六七人がとくに多い。大裏町・田浦村へ毛利領からの流入者が多いのは、その地理的関係から認められる。そして、筑前寄りの至津村・至津内新町・高月村へは福岡藩領ばかりでなく、萩藩領からも多数の者が入ってきている。
 走り者数を元和八年「人畜改帳」(ただし、この調査は子どもを除外していると思われ、総人口の絶対数を示すものではない)の村落人口と比較してみると、曽根・下北方村では一割ほどだが、田浦村や馬寄新町・葛原新町では八~九割をも占め、所により大きく異なる。村々への走り者数を、編年ごとに見ると、町場において、慶長六年から毎年のごとく走り者が来た至津内新町を除くと、他の大裏町・馬寄新町・葛原新町は慶長一五~一六年以降である。このことは、町立ておよび町の拡張によるものと考えられる。元和九年(一六二三)閏八月、規矩郡の下北方村で町立てが行われた(元和九年「万覚帳」)。下北方村は蔵入地・知行地に分割されており、いずれの町立てか明らかでないが、元和八年「人畜改帳」では本百姓二一人・名子七三人・牢人二人らの居住する村だった。町立てによって、同村の名子らは家をもち、「中国よりの牢人」なども家を獲得している。
 細川領では、走り者をこうした在町に有りつかせるため、寛永元年三月に「規矩郡の内こもり江・いつかたにても新浦・新町、諸牢人ども参り候はば、有り付け申さるべし」と申し渡し、積極的に招き入れていった(元和一〇年「万覚帳」)。このような町場が建設されてくるのは、一七世紀中頃までに集中しており、ここが走り者に落着き先を提供することになったのである。
 一方、村方への走り込みは、ある時期に集中する田浦村・黒原村、断続的な至津村・曽根村・下北方村など、さまざまである。細川領では、他領者を積極的に招き入れており、そうした政策もあって、規矩郡の村々に落着いた他領からの走り者は、いくつかの村に集中している。それらの村が走り者を吸収する条件は何だったのか。
 
(一)元和二年頃、規矩郡至津村の惣百姓が高免に反対して、黒田領との国境まで逃げた。細川忠興はこれを「百姓残らず国境まで退く」、「国境の者山上り仕る」と呼ぶ。呼び戻された至津村の惣百姓を全員処罰するか、棟梁人のみ処罰するかの意見が出され、忠興は後の禍になるとして庄屋をはじめ惣百姓を斬首にした。ただし名子・女子などは助け、本百姓として田畑を耕作させたが、その者たちでは十分に作付できなかった。そこで彼は、「いつかたにてももとでのこれある百姓、或牢人どもよび寄せ候へ」と申し付けた。ちょうど「中国より走り来る」の甚兵衛という「有力」な百姓が田川郡にいたので、彼を呼び寄せて残った田畑を耕作させている(「細川家史料」)。
 
(二)規矩郡大城寺村の請藪出入で提出された富野村庄屋の「申し上ぐる覚」によると、元和四年以来、大城寺村平右衛門は竹藪を請け、藪年貢を払ってきたが、同六年に死去した。その後子の九介が片野村へ移ったことにより、大城寺村が「明所」になるとして、惣庄屋富野喜左衛門は、自ら才覚して「中国よりの牢人」を招き入れ、郡奉行の許可を得て新百姓に仕立てた。牢人は三左衛門と平左衛門の二人であり、夫役免除の優遇策がとられた(元和七~九年「立御耳立工事目安の写帳・相済申工事目安の写帳」)。
 
 この例から、走り者が村落内に定着する条件の一つとして無主地の存在をあげることができる。それまで耕作していた者たちが、何らかの理由によって離村した時、郡奉行・代官・庄屋層は才覚して走り者を招き入れている。
 他所からの入村者に対する村民の具体的対応を見よう。細川氏家臣、中路周防の荒仕子(下人)清六は、国東郡夷村の出身で元和六年の大坂城普請に人夫として登坂したが、待遇に不満で帰国した。彼は規矩郡篠崎村十兵衛の下女を盗んで黒田領へ走り、同八年に帰村してきた。下女を盗まれていた十兵衛は、清六を「少の御百姓」とすることを藩に願っている。庄屋との連署で出された願書には、篠崎村は「御百姓御座なき所」であり、「村中御百姓衆」の助言もあって下女を清六の女房とし、「少の御百姓」に仕立てたい、とある(元和七~九年「立御耳工事目安之写帳・相済申工事目安之写帳」)。また、同八年に萩藩領から走ってきた新兵衛は、当初城下町に居住していたが、商いもままならず村方へ移った。規矩郡の長野村へ移った新兵衛は村民の「心付」で家作を行い、田地も蔵入地農民から預かっている(同前)。他所者は排除されるどころか、むしろ積極的に迎え入れられている。