元和七年以降、年貢率を固定する「土免」が細川領において実施された。ただし、一律に実施されたのでなく、村により異同があった。元和九年一一月、京都郡の蔵入地菩提村が目安箱へ提出した願書によると(「御奉行所覚帳抄出」)、慶長六年(一六〇一)以来の農村荒廃を具体的に述べながら、「定免に御定め下され、その上御役目等五、三年の間なるとも御免なされ候」と求め、同月の惣奉行回答には「来年四月に御土免仰せ付けられ候砌、定免に仰せ付けらるべき旨仰せ出され候」とある。「土免」と「定免」が同意義で用いられているが、要求のうち役儀免除は却下され、土免については「来年四月」(寛永元年)となっている。
当時の年貢は、農民が春の土免を請負わぬ場合には秋の検見によって決定された。土免・検見の選択は、請書の提出に見られるように、ある程度農民側の意志に従っており、土免を請負った場合でも凶作時には破免し、検見を実施して新たに免を定めた。
元和八年三月一四日、田川郡の蔵入地採銅所村の九郎左衛門は前年度分の年貢米二石余を小倉の藩蔵へ納入し、蔵奉行から請取切手をもらい、これを庄屋へ渡した(「立御耳工事目安之写帳・相済申工事目安之写帳」)。ところが後日、庄屋から「十四日の切手はこれなく候」と言ってきたので、九郎右衛門は知人の蔵方役人に「御城の御帳」を調べてもらった。すると、三月一四日に二石余を納入したことが明記してあり、彼は紛失届けを出して切手の再発行を受け、これを庄屋へ提出した。各農民から庄屋へ提出された切手と藩方の帳簿を照合する過程で、藩側帳簿に記載のない三月四日付の切手が出てきた。そこで庄屋に年貢米横領の嫌疑が掛けられたが、調査の結果、この切手は三月一四日に九郎右衛門が納入した分を、蔵方役人が誤って三月四日と記したものであることが判明した。
これによれば、年貢は村で一括して納めるのでなく、各農民がそれぞれ藩の蔵へ納入し、蔵方役人から切手を請け取り、これを庄屋へ提出しているのが分かる。そして庄屋のもとに集まった切手と藩側の帳簿とを照合した。また同七年七月の宇佐郡大堀村における新開地年貢の一件でも、年貢は「長州御蔵」へ納め、代官の下代が切手を発行し、庄屋のもとの切手と代官側「帳面」とを引き合わせることが述べられている。細川領内のどこに藩の米蔵が設置されていたか明らかではないが、代官の下代などがその実務を行っていた。
これらの蔵米が大坂などへ運ばれていく。その様子を国東郡中村の元和七年「御算用目録」に見ると(同前)、米にして一六〇石余(うち五〇石余は大豆)が大坂へ廻漕されており、全体の八割を占める。輸送のための船は多くが藩有であり、岐木与右衛門や安田久兵衛など元和七~八年「豊前御侍帳」に記された船頭たちが運んでいる。これに対し、小倉への廻米は九石であり、とても少なく、しかも胡麻や餅米が運ばれている。この他の年貢米は、藩に使役される荒仕子・江戸夫の給米、庄屋給などとして払われている。
これから、蔵入地全体の状況を推し量ることはできないが、国東郡中村では年貢米の八割が大坂へ運ばれており、廻漕できる米・大豆のほとんどが大坂廻漕となっている。廻漕手段は運賃船よりも、藩の手船が主であり、何度にも分けて運ばれている。これは年貢の納入が何回かに分けて行われていたことによる。
年貢が完納できればよいが、納入できなかった場合は、どのような処罰が加えられるのであろうか。元和九年二月、細川氏家臣の斎藤権介が知行地農民の返還を求めた「申し上ぐる事」によると(同前)、高一一石余を抱える勘七は同六年に年貢未進があったので、元和七年二月二日より同八年二月二日まで、「御中間」奉公に出ることとなった。給主である斎藤は、勘七の田畑を庄屋に請け負わせたり、「小者に内作」させたりして耕作を維持した。奉公契約は一年であったが、期限後も抱え主は勘七を返さなかったため、斎藤はその返還を惣奉行に訴えている。また同九年二月、仲津郡木山村の規矩郡徳力村との出入から提出された蔵入地木山村庄屋の「申し上ぐる覚」によると(同前)、木山村助十郎は同六年に年貢未進があり、同村庄屋を請人として小倉の瓦焼き作介所へ奉公に出た。そして「前給一石三斗請け取り、御年貢に相立」てている。
年貢に詰まった者たちは自らが奉公人となったり、家族を奉公に出すことによって、その給与を未進分に立て替えている。奉公人化や牛馬の販売などにより、未進分の立て替えができればよいが、それができない場合はどうなるのだろうか。
元和九年一一月、京都郡菩提村の減免願いによると、慶長八年に未進があった弥二郎は知行主から人質として女房を取られたことを悔やみ、息子二人を「さしころし、わが家に火を付」けて心中している(「御奉行所覚帳抄出」)。また京都郡御手水村では、寛永二年(一六二五)に百姓長右衛門が走り、その母親は「人質に取り置き、御質部屋に入れ置き候」となった(寛永二年「覚書」)。母親を質に取ったのは、長右衛門の走りのためでなく、彼に年貢未進があったからである。後に未進分を上納すると、母親は解放されている。この記述から、未進分を代納したのが「右の村」の惣百姓であるか、村内の長右衛門一族であるかはっきりしないが、次の例から一族による代納と考えられる。
元和八年一〇月、中田川一〇カ村庄屋層の「申し上ぐる事」によると、郡奉行からの不当な高免賦課に対して、中田川の村々は、牛馬販売や奉公人化などのほか、親類による代納や「郡中くわんしん」によって年貢を納めている。「くわんしん」は勧進と思われるが、その具体的内容は不明である。ここでは、庄屋や村への転嫁はみられず、年貢が負担者個人の責任で納入されていたことを示している。それ故、完納できなかった場合は「御法度」として入牢させられた。