細川氏の財政はどのように回転していたのか、借銀と廻米の関係を見てみよう。
永青文庫には、小倉時代の細川氏が借銀するために使用した証文(「袖判」)が全部で四六通ほど残っている。「袖判」借状の多くは京都からの借銀に用いられており、借入先の大文字屋・八文字屋は「町人考見録」に記された京都商人と思われる。小倉時代の細川氏において、江戸・長崎を含めた全借銀のうち京都借銀の占める割合を数的に提示することはできないが、肥後熊本移封後の慶安元年(一六四八)においても、京都借銀は全体の八割を占め、圧倒的に多い。この状況は小倉時代でも同様であったと思われる。残る証文から京都での利子率を平均すると、元和九年は年利一割五分、元和一〇年は一割八分、寛永二年は一割七分程度であろうか。細川氏は、最大の借銀調達地であった京都へ毎年借銀奉行を派遣して、その手当てを行わさせている。
上方に派遣された借銀奉行には、利息の安い借銀をすることが要求され、彼らの才覚によって、各商人との利子率が決定された。商人からいくら借銀するか、またはいくら返済するのかは、奉行機構の中枢である惣奉行の指示にもとづいて行われる。寛永四年(一六二七)三月、「今年の借入高を通知すべきなのだが、去年の災害によりまだ大坂へ送る米高が決まっていない」と、惣奉行から京都へ派遣されていた借銀奉行らへ伝えられた(寛永四年「京都へ遣状控」)。寛永三年の旱魃は全領で八万石の被害を出しており、そのため翌年に至っても廻米高が定まっていない。
廻米高によって借入高が決定されるのは、廻米の売却代銀が借銀返済に充てられたからである。寛永四年(一六二七)一一月、惣奉行から借銀奉行への指示にも、大坂で売った米の代銀が足りなければ、借り替えでもよいから、利息分を返済するようにとある。
廻米について、寛永五~六年の江戸城普請時における廻米事情を検討すると、同五年一〇月、江戸城普請の影響から江戸の米相場が上昇しており、廻米を求める書状が小倉へ届けられた。この後も江戸への廻米を求める書状が出され、翌六年一月には江戸の忠利から惣奉行へ書状が送られた(寛永三~五年「上方より被成下御書写・従江戸被成下御書御請控」)。
江戸の米相場は一石あたり銀三〇目であり、大坂にある米も江戸へ廻せという忠利に対して、惣奉行は二月一三日に返書を送った。それによると、惣奉行は、高米価の江戸へ各地からの廻米増加が起こり、相場も安くなると予想して二〇〇〇石だけを廻すという。そして、大坂上着米を江戸へ廻さない根拠として、大坂相場の上昇をあげている。しかしこれは事実でなかった。同日に惣奉行から大坂の米奉行へ宛てた書状には、「米・大豆双場やすきにつき、うれ申さず」とある。
結局、惣奉行の裁量でもって、江戸へ二〇〇〇石の米だけが廻され、大坂の米は据え置くことになった。忠利もこれを了承したが、惣奉行の予想どおり大坂の米価は上がったであろうか。惣奉行から米奉行へ宛てた書状をまとめる寛永六年「大坂へ之状控」によると、閏二月頃に一時上昇したが、この後は「米値段やすく」とか「値段さがり」という状況が続いており、江戸の忠利から、家臣米よりも蔵米が安い理由を問いただしてきた。これに対して惣奉行は、予想に反して大坂の米価が上がらず、家臣米よりも安くなった理由を廻米量の相違に求める、苦しい説明をしている。大坂では米三九〇〇石余・大豆九九〇石余が売れ残り、一〇月頃になってようやく値段も上がり、どうにか完売できたが、すでに新米が出回る時期となっており、値段は安かった。結果的に惣奉行の予想は的中しなかった。
以上のことから、細川氏の廻米は大坂に直結したものではなく、他所の米価が高ければ転送されることもあったことが分かる。重要なのは販売先でなく、相場であったから、大坂の米奉行をはじめ忠利・惣奉行らは各地の米価に敏感な反応を示し、できるだけ高く売り払おうとした。また安ければ売らずにねかせたり、家臣へ貸し付けたりした。寛永四年には、低米価の大坂へ運ぶよりも、余米のある家臣に高利をもって貸した方が有利だとして、貸し付けている。
細川氏はより有利な条件でもって、蔵米の運用をはかろうとしており、この年は家臣への貸付ばかりでなく、長崎・大坂の米相場を引き合わせたうえで、長崎へも廻米している。
寛永六年(一六二九)一〇月頃から上昇し始めた大坂相場について、一〇月二四日の惣奉行報告には一石に付き銀一八匁とある。上昇したといっても一八匁程度であり、同年初頭に江戸で三〇目したのと比べると、運賃などを差し引いても、忠利が指示したように江戸へ廻漕したほうが有利であったろう。予想に反して大坂相場が上がらなかったためか、惣奉行は右の報告で二万五〇〇〇石の米を大坂へ廻すという。
細川氏の廻米は相場により増減するので、毎年二万五〇〇〇石余が大坂へ運ばれたわけではない。寛永二年には「当年などは上げ候米これなし」ともある。寛永六年の大坂廻米がとくに多量であったことは、一二月一五日に惣奉行から米奉行へ宛てた書状に明らかであり、廻米の急増によって、町屋の蔵を借りなければならない状態となっている。例年になく多量に運ばれた米の売却代銀は、江戸や小倉へ送られた形跡はなく、代銀は京都を中心とした借銀返済に充てられている。大坂から送金を受けた京都の借銀奉行・調物奉行は、借銀返済だけでなく、新年度の借銀調達にも当たるが、同月二五日には惣奉行から「袖判」借状二〇枚が送付されている。
細川氏の財政運営において、上方(かみがた)借銀は必要に応じて適宜借り入れるのではなく、旧借分の返済額を考慮して新借額が決定され、その年の初めに大方調達される。そして返済は、大坂廻米の売却代銀を主体としていたが、低米価の場合は各地へ転送された米の売買代銀が充てられた。財政上に占める借銀の割合は不明だが、借り入れられた銀子は江戸や小倉に運搬されて諸費用に充てられている。
毎年、上方から借銀しているといって、即座に財政困窮とは言えない。残存する「袖判」借状を見ると、元和九年(一六二三)の借銀はほぼ利息のみの返済であったが、寛永元年には、それらの元銀を含めた一七〇〇貫目余もの借銀が元利ともに返済されている。しかし、細川氏が熊本へ転封する寛永九年(一六三二)には、累積した借銀をいかに返済するかの計画を立てねばならなくなっている(宮崎克則『逃げる百姓 追う大名』)。