源氏は、初め嵯峨天皇がその皇子を臣籍に下した時に与えた姓で、仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・冷泉天皇などの時代にも、皇子・皇孫に源氏を下賜している。なかでも、嵯峨源氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏が名高いが、小笠原氏は清和源氏の末流である。
清和源氏は、清和天皇(八五八年から八七六年まで在位)の孫である経基王から始まり、一一世紀後半期の戦役(前九年の役、後三年の役)を通じて東国武士団の棟梁としての基礎を固め、各地に勢力を広げていった。この清和源氏の血脈のなかで、経基王-(多田)満仲-頼信-頼義と続き、頼義の三男義光から(新羅三郎の異称を持つ。新羅明神の社檀で元服したからという)義清-清光とつながる血統は、甲斐国で勢力をのばした。さらに清光の子らは、それぞれ本拠とした土地の名などを姓として名乗った。すなわち、逸見光長、武田信義、加賀美遠光、安田義定、安井清隆、河内長義、田井光義らであり、彼らは甲斐源氏と称される武士団を形成したのである。このうち、現在の山梨県若草町加賀美を本拠とし、加賀美を姓とした遠光の次男・長清が初めて「小笠原」を名乗った。「小笠原」の名は、現在の山梨県南アルプス市と同県北杜市にあり、どちらにちなんだものか不明である。いずれにしても、いずれかの「小笠原」に所領を得た長清は、加賀美を弟に譲って、小笠原の名を名乗りはじめたのである。
長清は、父遠光(文治元年=一一八五、信濃守に任じられる)とともに、源頼朝が絶大な信頼をおいた人物であった。