ところで、小笠原氏は室町幕府の弓馬師範として知られるが、それが宗家である信濃小笠原氏であるかのように説くのは誤伝である。室町幕府弓馬師範の小笠原氏は、宗家である信濃小笠原氏ではなく、諸国に分岐した庶流の一つ、京都小笠原氏であったことが明らかとなっている。しかも、京都小笠原氏が武家礼式家としての地位を確たるものとするのは、室町中期、永享年間頃からなのである。室町幕府弓馬師範として京都小笠原氏の名声が高まるにつれて、ほかの小笠原諸家もこれに準ずる風がおこり、また、戦乱期に入ると、信濃小笠原家などでも故実家を標榜し、自家の正当性を主張するようになるのであった(二木謙一「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」『國學院大學日本文化研究所紀要』第二四号)。
したがって、小笠原長清が源頼朝に弓馬礼法を指南して以来、信濃小笠原氏が幕府の弓馬師範であったとする説や、長清から九代目の長秀が、足利義満に命じられて、今川氏頼・伊勢満忠とともに、「三議一統」なる礼式書を著したとするのは、『続群書類従』など江戸時代の編纂物にもとづくものであり、信用できるものではない(今川氏頼・伊勢満忠なる人物は実在しなかった可能性が高い)。このことは、既に新井白石や伊勢貞丈など、江戸時代の学者、故実家が指摘するところである。