小笠原一族の発展と分裂

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 長清のあと、長経・長忠と続く嫡流は、由緒ある御家人として幕府に仕えたが、長経が源頼家の侍臣として比企氏の乱に与したことから北条氏からは遠ざけられた。
 元弘三年(一三三三)二月、後醍醐天皇は隠岐を出て京都奪回をめざしたが、これに対して幕府が派遣した足利尊氏は、六波羅探題を攻め落とし、北条氏に反旗をひるがえした。小笠原貞宗はこの挙兵に呼応し、幕府滅亡後、建武政権から信濃守護に任じられている。貞宗は、執権北条高時の遺児・時行が信濃に逃れ、諏訪氏にかつがれて挙兵した際には(中先代の乱)、信濃に残る北条勢力を一掃するため各地を転戦した。その後、尊氏が建武政権に反逆すると、貞宗は行動をともにし、後に改めて尊氏から信濃守護に任じられ、以後しだいに、信濃守護職は小笠原氏が占めるようになる。しかし、小笠原氏が安定して信濃支配を行ったわけでは決してない。
 当時の信濃には村上・高梨・諏訪などの有力な豪族が割拠しており、貞宗も村上氏に守護職を奪われた時期があった。また、貞宗の嫡子・政長にしても、いわゆる「観応の擾乱」の際には、一時諏訪氏に守護職を奪われた。さらに次の長基の代には、信濃が室町幕府から鎌倉府の管轄に移ったことで、小笠原氏の信濃守護職継承は中断する。信濃守護に復帰するのは、長基の子・長秀が応永六年(一三九九)頃に任命されるまで待たなければならなかった。それでも、小笠原氏は所領をしだいに拡大し、弘和三年(一三八三)に長基から長秀へ相続された所領には、甲斐・信濃はもちろん、陸奥国の所領までも含まれていた。