嘉吉の内乱

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 信濃守護に復帰した長秀は、応永七年(一四〇〇)七月に京を出発し信濃に入ったが、諏訪・村上といった国人層の反発を買い、ついには戦にまで発展した(大塔(おおとう)合戦)。事実上、敗北した長秀は京へ戻り、守護は一時斯波氏に移り、後に信濃は幕府直轄地となった。
 長秀は応永一二年(一四〇五)に、「弟政康に所領を譲るが、政康に子がない場合は、兄長将の子に譲る」という内容の譲状を書いた。長秀には実子がなかったのである。政康が信濃守護になったのは、応永三二年(一四二五)で、兄長秀が守護職を解かれてから、二十数年を経ていた。
 嘉吉二年(一四四二)、小笠原政康が死去すると、政康の子・宗康と小笠原持長との間で相続をめぐる争いが起きた。持長は、政康の嫡男で宗康の腹違いの兄とする説や、長秀の子とする説もあるが、長秀の早死した嫡男・長将の子とするのが一般的である。持長は長秀の残した譲状を根拠に自己の権利を主張したが、宗康は幕府へ訴え、勝訴した。それに納得できない持長と、宗康との間に緊張が高まり、ついには戦となった(漆田原の合戦)。兵力で勝っていた宗康は押し気味に戦いを進めたが、途中形成が逆転し、意外にも、持長が勝利し、宗康は戦死したのである。幕府は持長の勝利を認めず、宗康の弟・光康に家督を相続させ、信濃守護とした。しかし、後には持長が守護職を獲得した。ところが、その後には再び光康が守護に復帰するなど、両家の間で文字通り綱引きが演じられたのである。これには、幕府管領の畠山氏と細川氏の権力闘争が強く影響していたと推測されている。
 その後、光康のもとで養育されていた宗康の子・国松(後に政秀)は、鈴岡(現在の長野県飯田市)を本拠とした。さらに、寛正二年(一四六一)光康が死去し、翌年には持長が死去した。家督は光康の跡を家長が、持長の後を清宗が継いだ。これにより、小笠原氏は完全に三派に分かれ、それぞれ異なる道を歩むこととなる。一般には、持長系を深志(府中)小笠原氏、光康系を松尾小笠原氏、政秀系を鈴岡小笠原氏と呼んでいる。鈴岡小笠原氏は、一時政秀が信濃守護になるなど勢力を広げたが、松尾小笠原氏らに攻められて政秀が死去すると、事実上滅亡した。深志小笠原氏は、後の小倉小笠原氏へとつながり、松尾小笠原氏は越前勝山小笠原氏へとつながる。
 
図3 小笠原氏系図
図3 小笠原氏系図