天正一〇年(一五八二)六月、織田信長が本能寺で倒れると、信濃は周辺大名による争奪の場となり、混乱状態となった。なかでも、越後の上杉景勝は早い動きを見せ、上杉のもとに身を寄せていた小笠原貞種(長時の弟)に深志城を攻めさせた。武田氏滅亡後、信長から深志城を与えられていた木曽義昌は敗走し、一時的に貞種が深志城主となった。しかし、徳川家康のもとに身を寄せていた長時の子・貞慶も深志奪還を試み、天正一〇年(一五八二)七月、ついに叔父貞種を追い払って、父長時以来三三年ぶりに深志を取り戻したのである。
その後貞慶は、徳川家康が勢力を広げる中で、子の幸松丸(後の秀政)を人質として差し出し、徳川氏に恭順する意思を示した。しかし、幸松丸を預けられた家康の家臣・石川数正が、幸松丸を連れて秀吉に寝返ったため、両雄対峙の中、小笠原氏は一時秀吉方に付かざるをえなくなった。その後、秀吉・家康の和睦がなり、小笠原氏も秀吉の仲立ちによって、松平信康(家康の長男)の娘・福姫を秀政の妻とし、徳川譜代として行動することとなったのである。そして、小田原の戦い後、家康が北条氏の旧領を宛がわれると、小笠原氏も移封となり、下総古河(現在の茨城県古河市)に三万石を与えられた。さらに、関ヶ原合戦後、信濃国飯田(現在の長野県飯田市)に六万石を与えられて移封となり、慶長一八年(一六一三)には、八万石に加増の上、石川康長(石川数正の子)改易後の松本(深志)に入ったのである。