細川氏の肥後転封

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 寛永九年(一六三二)四月、加藤忠広(肥後五一万五〇〇〇石)の嫡男・光広が作成した疑いが濃厚な、将軍・徳川家光暗殺を呼びかける怪文書の存在が露見した。家光は、これに対し強い態度でのぞむことを伊達政宗ら有力大名に予め明言し、五月二九日、肥後五一万五〇〇〇石の加藤氏を改易とすることが発表されたのである。
 領主不在となった肥後が誰に与えられるのか様々な噂が取り沙汰されたが、最有力とされたのは、関ヶ原合戦後、豊前一国と豊後国東郡・速見郡を宛がわれていた細川氏であった。この噂は噂のままで暫く時を経るが、寛永九年一〇月四日、江戸城に上った細川忠利は、将軍家光の口から直接、肥後転封を命じられたのである。噂が現実となった。