小笠原忠政の豊前入部

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 細川氏転封後の豊前・豊後には、小笠原一族が宛がわれた。すなわち、小倉一五万石に播磨明石一〇万石の小笠原忠政(後に忠真)が、中津八万石に播磨龍野六万石の小笠原長次(大坂夏の陣で戦死した忠政の兄忠脩の嫡子。忠政の甥)が入部した。さらに、豊後国木付(杵築)四万石は小笠原忠知(忠政の弟)に、豊前国龍王三万七〇〇〇石は松平重直(忠政の弟)にそれぞれ宛がわれた。これは、家康曾孫の忠政に小倉を与え、あわせて近隣に分家筋を配置することで、譜代小笠原一族に九州の抑えとしての役割を負わせたものである。細川忠利の妻・千代姫は小笠原忠政らの姉であり、両家は親戚の間柄であるから、その点も配慮された領地替えであったろう。
 
写真5 小笠原忠真画像
写真5 小笠原忠真画像
(広寿山福聚寺所蔵)

 領地を去る者、入る者双方にとって、それが気心の知れた者であることは幸運なことであり、引き継ぎもうまく運ぶものであった。事実、細川忠興は旧領に小笠原氏が入ることについて、「さてハ心安存候事」(大日本近世史料「細川家史料」四)と安堵している。また、「小倉本丸家毎の板敷の下」(小倉城本丸建物の床下)に、いざという時のために蓄えておいた炭・薪を、全て忠政に譲るなど(「忠利公より右近様へ御私用之状控」永青文庫)、小笠原氏への領地引き継ぎは、細川氏の細やかな心遣いにも助けられ、スムーズに行われた。
 
写真6 「忠利公より右近様へ御私用之状控」
写真6 「忠利公より右近様へ御私用之状控」
(永青文庫所蔵 熊本大学附属図書館寄託)