初期の大庄屋

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 細川忠利は、「惣庄や(屋)と名付、代官同前ニ万事用を申付、知行を遣置候」者について、小笠原氏の郡方支配に必要だろうとの配慮から、「御用成もの」つまり役に立つ者を旧領に残すなどした(同前史料)。細川時代の惣庄屋は、身分的には農民であったが、家中とともに「御侍帳」に名前があげられ、役料として知行地が与えられている。
 村の上位となる惣庄屋の管轄地域は「手永(てなが)」といった。細川領の中でも、主として豊後地方の慶長一〇年代の史料で確認される「捌(さばき)」という行政単位を、「手永」の前身とする見解もあるが(松本寿三郎「近世初期細川藩における農村支配」)、「捌」の施行は豊後地方のみであった可能性もあり、細川領の全てで「捌」が設けられ、後にそれが「手永」に改編されたとは断言しがたく、なお検討の余地がある。
 惣庄屋の多くはその土地に根ざした前代以来の土豪層が任命された。その具体的な出自については、次の齋藤儀左衛門のような例がある。
 齋藤儀左衛門の家は、代々仲津郡元永村長井(現行橋市長井)に居を構える土豪であったが、元和八年(一六二二)、細川氏から仲津郡大村手永惣庄屋に任じられ、大村(現京都郡犀川町大村)へ居を移した。そこで、手永の名称を自家の出身地にちなんで「長井」に改めたといい(「齋藤系図」齋藤家文書)、以後、長井手永の名称は明治初年まで用いられることになった。
 手永名の由来については検証が必要だが、永井(長井)儀左衛門が実在の人物であったことは、他の史料からも確認できるところである(寛永九年「豊前国仲津郡寛永六年同七年同八年三ケ年之御免帳」永青文庫)。なお、具体的な時期は不明だが、小笠原氏入部後、長井手永大庄屋は齋藤氏から森氏に替わり、以後森氏が代々世襲して明治維新を迎えている。
 
写真7 「豊前国仲津郡寛永六年同七年同八年三ケ年之御免帳」
写真7 「豊前国仲津郡寛永六年同七年同八年三ケ年之御免帳」
(永青文庫所蔵 熊本大学附属図書館寄託)

 また例えば、元和八年(一六二二)に作成された「仲津郡人畜御改帳」(永青文庫)に名前の見える、下伊良原村居住の惣庄屋・白川次郎兵衛の家は、かつて宇都宮家の重臣であったという(白川家文書「佐藤・白川系図」ほか)。宇都宮家が滅び、次郎兵衛の父・信元は一時筑前へ逃れたが、後に帰村し、細川氏治政下で惣庄屋に任命され、伊良原又七郎(のち孫兵衛)と称した。その後、次郎兵衛が父の跡を継ぎ、その子・十左衛門(重左衛門とも書く。重友)も惣庄屋を勤めた。この十左衛門は小笠原氏入部後も大庄屋を勤め(小笠原氏になって惣庄屋を大庄屋に改称)、理由は定かでないが節丸村(現京都郡豊津町節丸)へ移住。この時から、伊良原手永は節丸手永に改称されたという(『京都郡誌』)。
 ちなみに、近世中・後期における小倉藩領京都郡・仲津郡の手永構成は表3のとおりである。小笠原氏入部後、しばらくの間は、手永の名称や、構成する村に異動があったようで、例えば表には無いが、築城郡椎田手永高塚村(現椎田町)は、元禄期(一六八八~一七〇四)まで八田手永大庄屋支配であったという(濱宮文書四三号)。いつの時期から手永の構成が固定化したか未詳だが、少なくとも宝永三年(一七〇六)に水帳改正(後述)が行われた後には、固定化する条件が整ったものと思われる。
 
表3 京都郡・仲津郡の手永区分(江戸時代中・後期)
郡名手永名村名
京都郡久保新町村上野村下田村飛松村菩提村御手水村図師村上久保村中久保村下久保村
津積村上検地村下検地村平尾村西谷村上稗田村下稗田村大谷村前田村中川村
黒田上黒田村中黒田村下黒田村上田村箕田村長川村宮原村浦河内村矢山村岩熊村
池田村入覚村高来村福丸村徳永村須磨園村常松村   
延永延永村長音寺村行事村草野村吉国村上津熊村中津熊村下津熊村長木村二塚村
鋤崎村黒添村法正寺村長尾村谷村山口村    
新津雨窪村苅田村浜町村提村光国村馬場村南原村集村尾倉村与原村
上新津村下新津村上片島村下片島村岡崎村葛川村稲光村二崎村  
仲津郡元永元永村竹田村沓尾村高瀬村稲童村辻垣村大野井村金屋村宝山村羽根木村
蓑島村小犬丸村馬場村長江村松原村袋迫村    
国作福富村福原村国作村惣社村矢留村有久村大橋村竹並村下原村田中村
呰見村綾野村上坂村徳政村国分村     
長井花熊村木山村谷口村大村大坂村柳瀬村崎山村喜多良村鐙畑村大熊村
山鹿村本庄村古川村久富村続命院村八ツ溝村    
節丸吉岡村上原村光冨村節丸村犬丸村内垣村末江村上高屋村下高屋村木井馬場村
横瀬村上伊良原村下伊良原村帆柱村扇谷村 
平島津留村真菰村今井村宮市村寺畔村流末村天生田村彦徳村崎野村柳井田村
平島村草場村道場寺村徳永村