天正一五年(一五八七)七月、九州征伐後に秀吉が行った大名配置により、黒田孝高に豊前国京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐の六郡(妙見城・龍王城の城料地を除く)が宛がわれた。黒田氏は入部直後に検地を実施したが、この時の検地はいわゆる「指出(さしだし)検地」といって、各村が物成高を上申する形のもので、当時としては少し古いタイプの検地であった。黒田氏が天正一五年の段階で、指出検地しか行いえなかったのは、領主としては「新参者」の黒田氏の立場を象徴しているであろう。
黒田氏の後を受けた細川氏は、黒田氏の作成した検地帳を参照はしたが(中山重記校訂「豊前国宇佐郡四日市村年代記」)、踏襲することなく、新規の検地を慶長六年(一六〇一)七月から開始した。家臣への知行割りを行う必要からも大急ぎで実施したようで、現存する検地帳の日付は八~一一月である。この検地では、一反を三〇〇歩とし、一間を六尺五寸、枡は小倉枡(縦横五寸・深さ二寸五分)を使用したという(『大分県史料』八巻・同三五巻所収広崎文書、津田維寧「豊前旧租要略」)。また、田畑ともに五等級の位付けを行い、それぞれの斗代は、田方が上々一石六斗、上一石五斗、中一石三斗、下一石一斗、下々九斗、畠方が上々九斗、上八斗、中六斗、下四斗、下々三斗であったという(同前)。村位によって異なる斗代が設定されたとも推測されているが、なお検討の必要がある。
この時作成された検地帳には、田畑一筆ごとの分米が記されておらず、位付け、反別、名請人が記されているだけで、その分米集計を末尾で行っているのみである。このことについては、既に指摘されているように「石盛換算は一律に机上でなされた」(松下志朗『幕藩制社会と石高』)可能性が高い。この検地によって打ち出された領知高は、慶長一二年の史料(「大名石高鑑」)で三九万九五九九石六斗であったことを知ることができる。
その後、細川氏は永荒地・当荒地・新地などの内検を実施しており、慶長一四年(一六〇九)の企救郡柳村廿町の検地では、慶長六年の検地高一六八石八八七合の村高に対し、五二石二六八合八〇才が新たに打ち出された(「万覚書」永青文庫)。また、京都郡与原村は元和四年(一六一八)、寛永元年(一六二四)、同六年(一六二九)の三度にわたって、新田畑の検地が「開次第」行われたという(「郡典私志」)。
寛永三年(一六二六)には企救郡の検地が行われている。この検地は春から開始され、同年七月には検地帳の調製が終わったようである(「日帳」永青文庫)。
寛永九年(一六三二)に小笠原忠政(後に忠真)が拝領した豊前国企救・田川・京都・仲津・築城の各郡および上毛郡の一部は朱印高一五万石で、内高は一九万八八七〇石六四八合であった(「豊前旧租要略」)。