水帳改正

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 その小笠原氏は細川氏から検地帳を引き継いだが、以後、明治初年に至るまで再検地を行うことはなく、慶長ないし寛永期に行われた検地の成果が、二百数十年の長きにわたり年貢賦課の基礎として生き続けたのである。
 ただし、宝永三年(一七〇六)に「水帳改正」と称し、「検地帳ヲ謄写シ、唯誤謬ヲ訂正」(「豊前旧租要略」)することが行われた(田川郡は寛保二年=一七四二に再度水帳改正)。その具体的な改正内容は、現在判明しているもので、①村高の端数部分。具体的には勺以下を切り上げ、切り下げして、合の位で収まるように調整する(勺以下が無い場合はそのまま)、②分村した枝郷の村高を本村から分け、別帳とする、③飛び地や入り組み地の整理をする、④細川検地帳とは様式を変え、田畑を水利ごと分けて配列する、といったものであった。
 表4は、旧仲津郡のうち現行橋市域に含まれる村々の、元和八年(一六二二)、寛永九年(一六三二)の村高および宝永三年(一七〇六)の水帳村高を掲げたもので、各村の村高変遷を見れば水帳改正の内容を読み取ることができる。そのうち①の端数(勺以下)調整のことについて、若干解説を加えておくと、これは寛文一一年(一六七一)に幕府の政策に同調し、藩の公定枡を小倉枡から京枡に改めたことによるものと考えられる。前述のように、細川氏の慶長検地は小倉枡(縦横五寸・深さ二寸五分)を使って行われたが、そのような地域色の強い特殊な枡を、当時一般的であった京枡(縦横四寸九分、深さ二寸七分)に改めたのである。幕府は、寛文九年(一六六九)に江戸市中に対し、江戸枡を京枡に統一するよう指示したが、小倉藩の京枡採用は、この幕府政策に歩調を合わせたものではないかと考えられる。
 
表4 現行橋市のうち旧仲津郡各村の村高変遷(単位:石)
村名検地帳村高増減宝永3年増減寛永9年村高から宝永3年
元和8年寛永9年(元和8年→寛永9年)「水帳」村高(寛永9年→宝永3年)村高に至る村高変化の内容
元永1050.364101150.78381100.419711150.784000.00019勺以下切り上げ
竹田142.00000142.626000.62600142.626100.00010 
   211.97600 211.97621平嶋村より渡高
沓尾0  29.76870 29.76870今井村より分村
高瀬474.57723474.57423△0.00300474.57400△0.00023勺以下切り下げ
稲童907.37600907.376000907.376000同一(元和8年より)
辻垣261.04450262.460341.41584262.46000△0.00034勺以下切り下げ
大野井1046.842901046.84200△0.000901046.842000同一
金屋132.69090  131.95050 131.95050今井村より分村
   82.22550 82.22575羽根木村より渡高
宝山604.94496608.783783.83882604.96500△3.81878 
羽根木508.09600489.25225△18.84375407.02650△82.2257582.22575金屋村へ渡高
蓑島23.2590023.25900023.259000同一(元和8年より)
小犬丸258.97600275.9760017.00000275.976000同一
馬場334.95800335.918000.96000335.918000同一
長江361.59280355.98350△5.60930355.28300△0.70050 
松原517.48300518.509601.02660518.510000.00040勺(合)以下切り上げ
福富410.69620415.071204.37500415.07100△0.00020勺以下切り下げ
   118.28100 118.28100寺畔村より渡高
矢留507.34800507.348000507.348000同一(元和8年より)
大橋1506.159331517.7843411.625011517.78400△0.00034勺以下切り下げ
竹並519.07630537.9568518.88055446.69200△91.2648591.26485柳井田村へ渡高
津留651.74250655.673503.93100655.67300△0.00050勺以下切り下げ
真菰   175.81400 175.81400今井村より分村
今井975.955301156.43940180.48410818.90600△337.53340175.81400真菰村が分村
     29.76870沓尾村へ高分け
     131.95050金屋村が分村
宮市582.12870582.128700582.12800△0.00070勺以下切り下げ
寺畔562.61000575.0640012.45400456.78300△118.28100118.28100福富村へ高分け
流末540.57980541.034790.45499541.035000.00021勺以下切り上げ
天生田827.77970827.779700827.780000.00030勺(合)以下切り上げ
崎野350.00000344.53100△5.46900344.531000同一
柳井田255.37300277.9720022.59900277.972000同一
   91.26400 91.26485竹並村より渡高
平嶋721.98000736.3222114.34221524.34600△211.97621211.97621竹田村へ渡高
草場804.34900801.18284△3.16616801.183000.00016勺以下切り上げ
道場寺553.72716629.3084675.58130629.30800△0.00046勺以下切り下げ
徳永332.42620332.436650.01045332.43600△0.00065勺以下切り下げ
※徳永村は、東徳永のみ行橋市。
【史料】「元和八年仲津郡人畜御改帳」(永青文庫所蔵)
「豊前国仲津郡寛永六年同七年同八年三ケ年之御免帳」(同上)
「嘉永五年仲津郡本田畠御勘定帳」(行橋市所蔵)

 そして、京枡を採用した後、小倉藩の年貢算出は、特定の係数を村高に乗じ、付加税(延米・口米・延口米・薪代米・夫柄米・薪代夫柄代米)を含めた「京枡物成(きょうますものなり)」を算出する方法で行われるようになった。特定の係数とは、すなわち小倉藩では本途物成一石あたり三斗七合三勺二才八払の付加税を課したが、双方を合計した一石三斗七合三勺二才八払に計算の便宜上二払を加え、これに小倉枡の体積を乗じ、さらに京枡の体積で除した数値一・二六〇四〇二六八である。村高に免(年貢率)を乗じた数値(小倉枡の物成)にこの係数を乗じて、付加税を含めた京枡物成を求めるのである(「豊前旧租要略」)。この方法を「一二六下四下二六八の法」と呼んだ(同前書)。
 ただ、付加税に計算上の便宜として二払を加えていることからも分かるように、この算出方法の過程では、当然のこととして僅かな計算上の誤差が生じる。だから小さな値にこだわる意味が薄れ、水帳改正の際に村高の値を合の位までで収まるよう調整したのであろう。こういった端数部分の調整は、京枡採用後、慣習的に行われていたと思われるが、それを宝永三年(一七〇六)の水帳改正の際に公定したものと考えられる(川本英紀「小倉小笠原藩の村高について」)。
 なお、時代は下り慶応二年(一八六六)八月一日、長州戦争の最中に小倉城は「自焼」されるが、その情報が広まるや、領内各所で打ちこわしが発生する。打ちこわし勢は大庄屋、子供役、庄屋の役宅などを襲ったが、その主たる目的に水帳の破却があったことが知られている(第六章第二節参照)。
 
写真8 国作手永大庄屋が所持した水帳
写真8 国作手永大庄屋が所持した水帳
(行橋市歴史資料館所蔵)