村をいくつかまとめた行政区を「手永」と称したり、慶長検地の成果を明治初年まで使い続けたりと、小笠原藩の地方支配には前領主・細川氏のそれを踏襲したものがいくつか見られるが、反別麦もその一つである。
反別麦は、「細川氏領主ノ時ヨリ始マリ、各郡ニテ大小麦合セテ千三百余ノ額ナリ。徴収法ハ麦作田畑壱反ニ付、大麦弐升、小麦壱升宛トス。然レドモ往古ノ麦蒔地ニ掛リ、村々式納額ヲ(中略)郡土蔵ニ納メ、凶荒ノ予備ニ当テシ成規ナリ」(「旧小倉藩租税法」)、つまり細川氏の頃より始められた麦の備荒貯蓄で、小笠原藩がそれを引き継いだのだという。細川時代の徴収法をそのまま踏襲したのかどうかは不明だが、麦の耕作面積に応じ、反当り大麦二升、小麦一升ずつを賦課していたが、後には定額納入にしたという。「旧小倉藩租税法」では納入先を郡土蔵としているが、企救郡の反別麦は小倉御蔵(小倉城内の刎橋御蔵)、その他五郡は郷蔵に囲い込まれたとするものもある(「郡典私志」)。
国作手永大庄屋日記で近世後期の事例を見ると、同手永大庄屋役宅に保管している例(国作手永大庄屋嘉永四年日記七月二八日条、同安政四年日記六月二六日条)や大橋御蔵(郷蔵)に保管している例が確認され、貯蓄の実態が必ずしも明確ではない。上毛郡八屋御蔵には五間×二間半規模の六〇〇石収納可能な「反別蔵」があった(「天保十三寅ヨリ御用方日記帳」友枝手永大庄屋文書)。
弘化二年(一八四五)、郡代横川道蔵は、反別麦の代納(麦以外で納めること)を制限し、正麦納入の厳格化と、貯蔵場所を六郡のもの全て企救郡田野浦御蔵とするよう指示しているが(国作手永大庄屋弘化二年日記六月一八日条)、実行されたかどうか未詳である。仮に田野浦回送が一時期行われたとしても、長期継続していないことは確かである。
そもそも、反別麦は「土ニなる迄」も貯蓄するものであったというが(「郡典私志」)、近世後期には、一年間蓄えた後に売却していることが確認できる(国作手永大庄屋寛政一一年日記五月一六日条)。また、文化期以降になると、特定の「亡村(人手不足の村)」救済のため反別麦が使われるようになり、全く蓄えられることなく、収納されると同時に放出されるようになった。
仲津郡では、文化四年(一八〇七)から元永手永羽根木村、国作手永福富村・下原村に、合わせて大麦一二〇石・小麦八〇石(文政六年から大麦百石・小麦六五石に減額)が貸し下げられるようになったことを皮切りに、亡村救済目的での使用が開始されている。以後、化政期を通じて即時放出の貸し下げ額が増加し、また特定村落への貸し下げが慣例化、既得権化して、反別麦本来の、備荒貯蓄としての意味が失われていった。