寛文一一年(一六七一)九月、第二代藩主忠雄の弟真方に新田分与の名目で領地を分けることについて、幕府からの許可が下り、翌年二月には築城郡内で二二カ村が与えられた。これが支藩の新田藩(江戸時代に用いられた正式名称ではない)で、領地高は一万石であったが、他に合力米として知行一万石が与えられた(支給率は四割。後に代銀一六〇貫目支給に変わる)。この時、名目上新田藩領となった築城郡二二カ村とは次の村々である。
湊・臼田・坂本・岩丸・奈古・水原・日奈古・極楽寺・真如寺・小原・上り松・山本・安武・袈裟丸・下香楽・上香楽・深野・松丸・伝法寺・本庄・櫟原・寒田
また、貞享二年(一六八五)、新田藩の領地は築城郡二二カ村から次の上毛郡二六カ村に交換される。
黒土・塔田・荒堀・吉木・恒富・小犬丸・久松・三楽・鬼木・大西・野田・今市・清水町(以上、黒土手永)
岸井・成恒・広瀬・堀立・梶屋・市丸・森久・六郎・高田・安雲・緒方・小石原・皆毛(以上、岸井手永)
名目上にせよ、新田藩に分与されたのが、なぜ築城郡、上毛郡のこれら村々なのか、その理由は不明である。
いずれにしても、新田藩の創出は小倉本藩の藩制整備の一環として行われたものである。とくに本藩藩主に継嗣が無い場合は、新田藩か播磨安志藩(領知高一万石。旧中津小笠原氏)から養子を迎えて藩主に据えており(新田藩から一名、安志藩から三名)、このことが何よりも新田藩の存在意義であった。
支藩の存在形態は本藩への帰属性によって様々であるが、小倉新田藩の場合、その領地支配は実態が無かったと言っても過言ではなく、領地内に城はもちろん陣屋なども置かず、小倉篠崎に藩主の屋敷があるのみであり、また、農村支配も本藩の郡代支配下にあった。しかし、継嗣が無いことによる本藩の改易という最悪の事態を回避するため、藩主候補を用意しておくことが、新田藩の第一目的であるならば、領地支配の実態にこだわる必要はさほど無かったのであろう。