地方知行の廃止

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 幕府は、寛文四年(一六六四)に各大名に対して一斉に領知判物および朱印状を発給し、同時にその書式を細部に至るまで制定した。また、同七年(一六六七)には御料・私領の別を問わず、関東を除いて全国を六つの地域に分け、一斉に諸国巡見使が派遣された。さらに寛文一一年(一六七一)一〇月、幕領の代官に対して宗門人別帳の作成を命じたが、これはキリシタン取り締まりを目的にしたものであったことはもちろん、同時に民衆の個別人身支配を確立せんがためのものであった。
 幕府は、寛文期を中心にこのような諸制度の整備・統一を進めたが、小倉小笠原藩においても、寛文・延宝期を通じて、藩制の整備・改革の時期にあった。前述したように、小倉枡を京枡に改め、支藩の新田藩を創出したのは寛文期であった。また、寛文八年(一六六八)には家臣団の機構改革が行われたが、さらに延宝六年(一六七八)に地方(じかた)知行を廃止して全て蔵米知行とした。
 小倉藩は、延宝六年(一六七八)二月、藩札の発行を幕府に願い出て、三月中旬に許可、六月からその通用を開始した。現在のところ、この時刷られた藩札の実物は発見されていないが、十匁、五匁、一匁、七分、四分、三分、二分の七種の札が発行されている。この札は、豊後・筑前・長門までも通用していたが、幕府が宝永四年(一七〇七)に藩札の使用を禁止したため、諸藩と同様に通用が停止されたのである。藩札の発行は、領内に流通している全国通用貨幣を吸収し、領外での支出に充て、藩財政の安定化をはかることに主たる目的があった。