「疱瘡は器量定め、麻疹は命定め」という言葉があるとおり、疱瘡(天然痘)、麻疹(はしか)は、かつて最も恐れられた流行病であった。疱瘡は死に至る可能性とともに、治癒したとしても「器量」を損なう病痕の残ることがあった。「命定め」の麻疹は、疱瘡と同様、とくに小児の場合に命を落とす危険性が高率であり、また死に至らないまでも目や耳に後遺症の残ることがあった。文久二年(一八六二)六、七月を中心に、小倉藩領で麻疹が大流行したことがある。藩は看護法を周知させるとともに施薬を行ったものの、罹患者はかなりの数にのぼったようである。例えば国作手永では七月上旬の段階で、一二四〇名(最も多いのは大橋村の四七一名)が麻疹を患っている(国作手永大庄屋文久二年日記七月七日条)。
江戸時代に大流行した急性伝染病と言えばコレラがある。最初の流行は文政五年(一八二二)で、この時は西日本を中心としたものであった。二回目の流行は安政五年(一八五八)で、これは全国的な大流行となり、特に江戸での被害が甚大であったことが知られ、小倉藩領でも八月を中心に「コロリ」流行が確認できる。罹患する前に服用すれば「危難を遁れる妙薬」の調合法(麦芽・霍光(かくこう)・木香(もっこう)・丁子(ちょうじ)を調合)も藩から提供されたが(国作手永大庄屋安政五年八月一九日条)、猛威をふるうコレラ菌に対し、どれほどの効果があったであろうか。