地域限定のはやり病

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 疱瘡、麻疹、コレラといった、時に全国規模の大流行を引き起こす伝染病もあれば、一村から数カ村の狭い範囲で病が流行することも多かった。ほとんどの場合、現代医学で言うところの病名は知り得ないのだが、流行範囲が極めて狭い地域に限定されているのは、その病原菌の特性と、人の移動が現代人に比べて限られていたことによることが考えられる。
 嘉永七年(安政元年・一八五四)五月、仲津郡竹並村(現行橋市)で疫病が流行した。発端は、前月に同村惣助の母が罹患し、死去したことにあったが、その後二、三人に伝染はしたものの一旦は収束した。ところがまた病人が出始め、その上いずれも病状が重いために、病人の家(八~九軒)では田植えができない事態となったのである。そのため竹並村庄屋は、他所から人を雇い入れる資金の借用を藩に願い出るのであるが、次の史料はそれに対する郡奉行の回答である。少し長文であるが引用してみよう。
 
竹並村疫病流行に付き、時分柄根付け方差し支えに相成り候の趣を以って年賦拝借の儀歎き出候段、委細申し越され候趣承知せしめ候、右は村々共相互の疫難にこれ有り候間、手永より加勢申し付けられ候方にこれ有るべく候、去り乍ら、野より野に懸け候ての仕業には候え共、愚昧(ぐまい)の者共格別恐怖せしめ、村役共申し付けを用いざる儀もこれ有るべし、且又銘々とても繁多に相働き候折柄、彼是手間故、根付け引き後(遅)れに相成るべく候はば、重畳僉議を遂げられ歎き出の通り相応の拝借申し付くべく候間、猶又勘合宜しく取り計らわるべく候、随って信仰の医者相頼、心置き無く療治せしめ候の様、手当て申し付けらるべく候
   五月廿日       三宅円司
    国作甚左衛門殿
尚以って、本文疫病他村へ掛け流行致さず候様祈る事ニ候、毎度相話す事には候え共、納戸等明け広げ、能々風を通し、家内に酢を振らせ候様、最寄村々へ申し付けらるべく候
  (後略)
(国作手永大庄屋嘉永七年五月二四日条)

 
 竹並村のような事態を、「村々相互の疫難」(どこの村でも起こりうる災難)と考えていること、流行病が「野より野に懸け候ての仕業」(人から人へ、とは考えていない?)と捉えていること、また病人に対し「信仰の医者相頼、心置き無く療治せしめ候の様」(信頼のおける医者に診てもらい、心置きなく治療せよ)と労わっている点など興味深い。また、暗くジメジメした納戸(物置)などに風を通すことは言うまでもなく、屋内に酢を撒くことは、現在でも殺菌に酢を用いることがあることからも分かるとおり、一定の効果があったのではなかろうか。