福田東庵は、幕末期、小倉藩屈指の在郷町・仲津郡大橋村(現行橋市)で開業していた医師である。居宅の場所は、後に息子芳洲が住んだのと同じ、禅興寺・浄蓮寺の、中津往来を隔てた向かい側(現行橋市大橋一丁目六番地)と思われる。ただ、弘化三年(一八四六)、芳洲が村上仏山の私塾・水哉園に入門した時、入門帳には「仲津郡金屋村 福田仙之助」と記されており、大橋で開業する以前は金屋村(現行橋市)に住んでいたことが分かる。しかし、当時の医師は転住することが間々あったので、これをもって福田氏の元々の出身を金屋村と断定するのは早計だろう。史料が断片的のため分からない点が多いが、金屋村から直接大橋へ移り住んだのではなく、一旦仲津郡錦原(現豊津町)に仮住まいした後、大橋へ転居した模様である。錦原に移ったのは弘化五年(嘉永元年・一八四八)春頃で、翌二年三月まで住んでいた。わざわざ錦原に移ったのは、町が開かれて間もない錦原で、経費を度外視して「学文(問)・医学両様相兼ね世話いたし見申したく」、つまり寺子屋の師匠と医者を兼ねて錦原住人の世話をしたいと考えたからであった(国作手永本庄屋弘化五年二月一一日条)。東庵の人間性が窺える。
嘉永三年秋、仲津郡田中村(現豊津町)で風病が流行った時には、大橋村から一〇回往診し、合計八〇〇貼の薬を処方し、村人の命を救った(国作手永大庄屋嘉永三年日記一二月二一日条、一二月二二日条)。その功績により藩から褒賞を受けている。