彼の息子は三浦(「みつほ」か)といい、前述のように弘化三年(一八四六)に村上仏山の私塾・水哉園に入塾し(当時の名は仙之助)、嘉永二年(一八四九)春からは長崎へ赴いて、父親の跡を継ぐべく医術修行に励んだ。そして早くも、嘉永三年三月には帰郷し、企救郡下曽根村(現北九州市)に開業して、名前を養庵、後に芳洲と名乗った(同前史料三月一五日条など)。嘉永四年(一八五一)から安政三年(一八五六)までは、津田手永の医師たちをたばねる「郡医頭取」を務めている(国作手永大庄屋安政四年日記五月二二日条・二六日条)。
父・東庵は嘉永六年(一八五三)に、仲津郡全体の医師を統括する「惣頭取」となっていたが、安政四年(一八五七)五月、自らが病気がちであることを理由に、息子が大橋村に帰ることを願い出て、許されている(同前史料)。その後、芳洲は長門国萩(現山口県萩市)へ修行に赴くなど医術研鑽に努め(同前史料一〇月一〇日条など)、安政七年(万延元年・一八六〇)一月には家督を相続したようであるが、それから間もなく、東庵は死去している(具体的な死亡日は不明。同年三月末~四月初旬と考えられる)。その頃には芳洲の医師としての力量もあがり、彼の元には豊後国国東郡からも弟子が来ていた(国作手永大庄屋文久二年日記五月二四日条)。