虫送り

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 虫害による飢饉としては、享保の飢饉がよく知られている。享保一七年(一七三二)六月中旬から発生し始めた稲虫は、瞬く間に西日本一帯に広がり、史上稀にみる飢謹に発展したのであった。小倉藩では四万人を超す餓死者を出したという(「開善寺過去帳」)。この数字が正しければ、実に四人に一人程の割合で餓死者が出た計算になる。
 勿論、百姓らもただ漫然としていたわけではなく、必要な対策を講じた。まずは「虫送り」である。小倉藩領築城郡安武手永大庄屋(手永とは十数カ村をまとめた行政区。その長が大庄屋)の日記に次のようにある。
 
 村々小糠虫付き候に付き、実盛人形にて追い申し度旨申し上げ候えば、勝手次第と仰せ付けられ候、明後十三日追い申す筈に候、寒田にて実盛人形拵え、かね・太鼓を打ち、子供に紙のぼり共持せ候て、寒田より下り、追い下し候へ、受け取り、追い下し候え、と申し付け候
(安武手永大庄屋享保一七年日記六月一一日条)

 
 安武手永大庄屋は、管轄の村々に小糠虫(ウンカ)が現れ始めたので、藩に対して「実盛(さねもり)人形」を作り、虫を追い払いたい旨願い出た。それが許可されたので、城井川最上流の寒田村(現築上郡築城町)から実盛人形を先頭に行列を組み、鉦・太鼓を打ち鳴らして虫を追い払うことを指示したのである。このような虫退除の方法を「虫送り」(あるいは「実盛送り」)といい、この時は、上流から下流へ、村をリレーして行われた。おそらく、最後は海まで送ったであろう。