注油法の伝播

338 ~ 339 / 898ページ
 伝説は伝説として存在することに意味があり、その真偽を論じる必要はないのだが、あえて指摘させてもらうと、蔵富吉右衛門伝説には明らかに事実に反する点が一つある。それは、注油法が寛政期以降に筑前国中や他国へ伝播した、としている点である。仮に、この技術が筑前で発見されたものとしても、その周辺への伝播が一八世紀後半にまでずれ込むことはない。証拠はいくつでもあげられる。例えば、虫害による大飢饉の年、享保一七年(一七三二)の安武手永大庄屋日記に次のような記述がある。
 
、虫気ノ田ニ鯨油壱反ニ付弐合宛入見申候へと仰せ付けられ候、ひ(冷)へ申候田ニハ、水を引干候様ニと仰せられ候
(安武手永大庄屋享保一七年日記七月七日条)

 
 つまり、小倉藩領に注油法が伝播したのは、これより以前ということになる。鯨油の使用量について、一反(一〇アール)あたり二合(〇・三六リットル)としているが、一般的には三合が標準で、状況によって一~五合の範囲で調整したらしい(小西正泰「ウンカの特効農薬」)。史料後半部を見ると、「水温の低い田には水を入れて干せ」と指示されている。干すというのは、「陽に当てる=暖める」といった意味であろう。田の水が冷たいと、うまく油膜が張れず、効果が薄くなってしまうのではなかろうか。