国作手永大庄屋文書は、歴代の同手永大庄屋が異動のたびに引き継いできたもので、本来は膨大な史料群であったと思われるが、現存するのは行橋市教育委員会所蔵のものが全てであり(御用日記四二点、水帳など一二点)、個人が退蔵している可能性などはほとんどない。慶応二年(一八六六)八月一日、小倉城炎上を契機に領内各所で発生した打ちこわしにより、仲津郡五手永のうち四手永(元永、平島、節丸、長井)の大庄屋役宅は残らず焼失した。しかし、大橋村の国作手永大庄屋役宅は例外的に被害を免れているので、史料群がそこで失われたことはなく、現存数量に至ったのは、それより後年の取捨選択によるものと推測される。
国作手永大庄屋文書の所在が広く知られるようになったのは、昭和三八年に美夜古文化懇話会による「小笠原資料展覧会」がきっかけであったという(「慶応二年丙寅豊前国仲津郡国作手永大庄屋日記」解題、福岡県地方史研究連絡協議会)。当時の所蔵者「白石某氏」は姓から察するに、最後の国作手永大庄屋・白石治右衛門の裔と思われる。