白石治右衛門は、仲津郡内の庄屋職を歴任したのち大庄屋へ昇進した人物で(元々の居村は仲津郡平嶋手永道場寺村)、村役人としては、天保二年(一八三一)八月、平嶋手永柳井田村庄屋に任じられたのが振り出しであった(国作手永大庄屋文久二年日記三月二八日条)。以後、天保四年(一八三三)二月平嶋村、同八年(一八三七)四月寺畔村、同一四年(一八四三)七月道場寺村、弘化二年(一八四五)二月草場村、嘉永元年(一八四八)二月今井村と、平嶋手永内を異動して庄屋役を勤めた(同前史料)。
しかし、嘉永二年(一八四九)一一月、病気のため今井村庄屋を退いた後は、しばらく公職に就かず、復帰したのは嘉永四年(一八五一)二月で、この時初めて平嶋手永を離れ、節丸手永光冨村庄屋に任じられたのであった(同前史料)。同七年(一八五四)八月に国作手永国作村、安政四年(一八五七)二月に同手永矢留村へ異動し、あわせて国作村庄屋の時に田中村(安政三年二月~同四年二月)、矢留村庄屋の時に有久村(安政五年一二月~同七年六月)・同じく福原村(安政七年七月~万延二年二月)の庄屋をそれぞれ兼帯していたことが確認できる(同前史料)。
小倉藩領でも有数の在郷町・大橋村の庄屋に任じられたのは、万延二年(一八六一)二月一六日で(同前史料)、文久三年(一八六三)三月には撫育金献納の功により「一代格式子供役」を与えられ(同文久三年日記三月六日条)、白石姓を公式に名乗るようになった。同年に開始された農兵制に、他の庄屋・有徳人同様名を連ねたが、翌年一一月には「大橋村勤方格別繁多」との理由でその任を解かれた(同元治元年日記十一月十五日条)。また、慶応元年(一八六五)に始められた小倉藩家中による領民の譜代召し抱えでは、家老小宮民部近習となっている(長井手永大庄屋慶応元年日記八月一三日条)。
慶応二年(一八六六)六月、倅・喜右衛門が大橋村庄屋代勤となり(国作手永大庄屋慶応二年日記六月一〇日条)、それから間もなく治右衛門は国作手永大庄屋代勤を命じられ、手永苗字「国作」を名乗るようになった(「国作手永大庄屋代勤」・「国作治右衛門」の初出は同前史料九月一五日条)。大庄屋・国作昇右衛門が退任するのは翌慶応三年一〇月頃で、治右衛門が後任の大庄屋に就任したのは同年一一月一一日である(長井手永大庄屋慶応三年一一月一三日条)。ただ、翌年一月、治右衛門に大庄屋「帰役」が命じられているので(同慶応四年日記一月二〇日条)、この間に一時離任していたことになるが、詳細は不明である。明治三年(一八七〇)一月、名を「耕三」に改め(同明治三年日記一月八日条)、大庄屋制廃止(明治五年五月)後も、第四一区区長を勤めているが、現存する「御用日記」は明治六年が最後である。
彼の「御用」がこの年で終わったのか、なお確認の必要はあるが、いずれにしても、国作手永大庄屋文書が最終的に白石氏に伝わったのは、最後の大庄屋・白石治右衛門(耕三)が、明治以降に不要となった役宅の文書を自己の所有としたからであろう。推測だが、この時すでに彼の手によってある程度史料の取捨選択が行われ、相当量の文書が「整理」された可能性があるのではなかろうか。