沓尾守田氏

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 白石治右衛門の場合、父祖が村役人を勤めていたのかどうか未詳だが、たとえそうであっても、仲津郡の中核都市・大橋村の庄屋、さらには国作手永大庄屋に昇進するに至ったのは、ひとえに治右衛門自身の能力によるものであったろう。その経歴からは、自分の才覚だけを頼りに一代で「這い上がった」印象を受ける。
 一方で、村役人の中には中世土豪から続く系譜を持ち、江戸時代を通じて、代々の当主が庄屋、大庄屋を勤めた家もある。仲津郡沓尾村(現行橋市沓尾)の守田氏は、その典型の一つである。
 守田氏は、周防の大内弘盛の末孫・多々良弘政なる武将が祖であるといい、七代守田弘純の時から豊前守護代・杉氏に随って、京都郡松山城に拠ったといわれている。戦国期の松山城をめぐる攻防については詳しく述べないが、守田氏は天正七年(一五七九)の蓑嶋合戦あたりまで、杉氏(大内氏滅亡後は毛利方)に従って行動したのではないかと想像される。しかし、その後、杉氏が毛利の家臣として命脈を保つのに対し、守田氏は当地方に土着して江戸時代を迎えることとなった。
 江戸時代に入る頃、守田氏の当主は守田房吉で、彼は慶長二年(一五九七)に細川氏に命じられ、今井村から沓尾へ移住したとされるが(「蓑洲守田翁祝寿銘文」)、細川忠興が小倉に入ったのは慶長五年(一六〇〇)一二月であり、年代に食い違いが見られる。また、守田家旧蔵文書には、細川忠興、忠利の書状といわれるものも含まれるが(写真のみで現存しないため真偽確認は不能)、いずれも沓尾浦干拓について示す史料ではない。