守田房吉以後、守田氏の当主は、氏継(~一六七四)・政信(~一七一三)・氏尚(~一七二六)・氏政(~一七九三)・尚房(~一八〇九)と続き、代々沓尾村庄屋を勤め、次の氏庸(~一八四八)からは他村庄屋や元永手永子供役をも勤めている。氏庸の弟・実房(~一八七四。尚房次男。甚兵衛などを通称とする)も沓尾村や他村の庄屋を勤めた後、元永手永子供役に登用され、安政五年(一八五八)一月からは同手永大庄屋となり、文久三年(一八六三)一二月頃には平嶋手永大庄屋へ異動、慶応二年(一八六六)八月に退役している(「松風録」)。
守田房貫は(通称は卯助、欣左衛門、甚左衛門など。号は蓑洲。~一九一〇)は、文政七年(一八二四)三月四日に尚房の三男(氏庸・実房・房貫は兄弟)として生まれた。村上仏山の水哉園で学んだ後、沓尾村庄屋となり、文久新地干拓の「米銀受払方」(現場における出納係か)も勤めている。その後、実房の下で平嶋手永子供役を勤め、慶応二年八月に兄の跡を継いで同手永大庄屋に就任している。さらに、明治初年(明治三年から精一を名乗る)には大区区長などを勤め、後には福岡県議会議員に選出されるなどした(国作手永大庄屋文久二年日記など)。
村役人を勤める「名士」としての地位を保つのには、様々な葛藤や軋轢がきっとあったであろう。しかし沓尾守田氏は、見事なまでにその地位を相承することに成功している。