村役人のプライド

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 守田氏のように、中世武将の系譜を持ち、在地における高い地位を維持し続けた場合は尚更のことであろうが、彼ら村役人たちの自負心は並々ならぬものがあったと想像される。身分的には「農」であっても、「自分たちは特別な存在」という意識は必ずあったはずであるし、そのプライドの高さは、庄屋よりも大庄屋クラスの方がより一層のものであったろう。そんな大庄屋たちの身分意識が垣間見られる例として、幕末期に起きた玉江彦右衛門(京都郡行事村の豪商)の身分取り扱いをめぐる悶着を紹介しよう。
 文久三年(一八六三)小倉藩は、近海にたびたび出没し、時には上陸までする外国船に備えるため、関門海峡の門司から筑前境に至るまでの海岸線に台場(大砲を備え付ける砲台)を建設した。とりわけ紫川河口の東浦浜台場、西浦浜台場は総延長一〇〇余間の大規模なもので、東浦浜は町奉行が、西浦浜は郡代が担当して、同年三月一六日から建設が始まった。各郡には一世帯につき二人役の計算で加勢夫が割り当てられ、丁場には家老が毎日出勤し、郡代らも自ら「もつこ持」や「土砂出入手伝」をして「言語同(道)断の勢ひ誠ニ戦場の気色相見へ候」(『中村平左衛門日記』第一〇巻)と表現されるほど、極めて急ピッチに建設が進められたのである。事実、西浦浜台場はわずか四〇日程後の四月二七日に完成している。ただ、西浦浜・東浦浜に既存の大砲を設置したところ、「在来の大炮は僅か一隅に据へ附るに足す」(「小倉藩政時状記」)という状況であったため、領内寺社院の鐘を徴発して、新たな大砲が鋳造されたのであった。また、資金不足の一策として、台場の一部は領内豪商に建設させて、寄進させるという形をとり、その見返りとして豪商たちには「格式」が与えられたのである。その中の一人に玉江彦右衛門がいたが、彼の場合、与えられた格式は「六郡大庄屋上席」という、前例にないほど破格のものであった。次の史料は、そのことに対する京都郡大庄屋中の反応である。
 
(前略)
追って御意を得候、彦右衛門本文の通り仰せ付けられ候ては、是迄役前より支配仕来り候義、以後上席のもの支配も相成り兼ね、当節農兵ニも出居り候え共、役前より指揮も相成り兼ね候ニ付き、(略)第一御礼の節、宗門改め等如何相成るべくや、(略)町人の跡ニ付き候義心外の義共ニ御座候、(略)親彦右衛門義ハ度々大金等上御用ニも相立て候えども(略)矢張り郡ニては格式大庄屋ニて大庄屋支配を受け来り申し候、当彦右衛門義ハ当夏菱御紋御上下拝領の外、御節下され、其の外共々先代の廉々ハ御免の義も御座無く、この度壱番御台場築き立て人用金四人割りとか、外ニ酒三拾挺差し出し候て、御返り上席と仰せ付けられ候義、何分の御時相やと存じ奉り候(後略)
(国作手永大庄屋文久三年日記一一月五日条)

 
 これは、文久三年一一月四日付で、京都郡大庄屋中が仲津・築城・上毛の各郡同役中に宛てた書簡の追伸部分である。「六郡大庄屋上席となられては、農兵に登録している彦右衛門を指揮できないし、また登城した時の席順や宗門改めを受ける順番はどうなるのか。町人の後ろになるのは心外である。先代の彦右衛門も大金を上納して格式を得たが、せいぜい格式大庄屋で、われわれ大庄屋の配下であった。ところが、今回は先代の格式を飛び越して、台場建設の資金を豪商四人(玉江のほか、大橋村柏屋、行事村新屋、上毛郡宇島万屋)で上納するなどした見返りに、六郡大庄屋上席という格式を与えられたのは、どういうことだろうか」大庄屋の職にあるということのプライドは、やはり並々ならぬものであった。