寛政元年(一七八九)、江戸幕府は、全国の諸大名らに対し、過去に善行者(良い行いをした人)として表彰した者の記録を全て提出するよう命じた。幕府では全国各地から提出された膨大なデータを整理し、享和元年(一八〇一)に全五〇冊、収録された善行者約八六〇〇人の『孝義録』を公刊した(そのうち小倉藩領の者は、仲津郡真菰村の奥清右衛門など二八名)。『孝義録』では表彰された理由を、孝行・忠義・貞節・潔白・奇特・農業出精など一一種類に分けているが、善行の種類が重なった場合は孝行が優先されたこともあって、孝行者が全体の六〇%以上を占め、ついで奇特、忠義、農業出精、貞節と続く。幕府がこのように大がかりな事業を行った目的は、善行者の行為を民衆の生き方として人々に示すことにあった(菅野則子「江戸時代の孝行者」)。悪く言えば、幕府の考える善良な民衆像の押し売りである。