幕末の文久二年(一八六二)、小倉藩領田川郡糸村(現田川市)の神官・毛利丹波守元春は、領内の村々で語り継がれている善行者の伝説を聞き取り調査し、「孝子伝」を編纂したいと藩に願い出た。藩はその申し出を「神妙の事」(殊勝である)とし、許可書を渡すとともに、村々に対しは、古老からの聞き取り調査の際や宿泊する際に便宜をはかってやるよう指示している(国作手永大庄屋文久二年日記八月二〇日条)。毛利元春は「孝子伝」によって、領民としての模範像を示し、風儀を正す、といった使命感を持っていたのだろう。そんなことを思い立った人物が神官であるのが、どことなく幕末の匂いがして面白い。「孝子伝」は『孝義旌表(せいひょう)録』(「本伝」「略伝」「徴」からなる)の名が付けられ、慶応二年(一八六六)に完成し、藩へ献納された(公刊はされていない)。