義人、義民は本来「堅く正義を守る人。正しい人。わが身をかえりみず他人に尽くす人」の意味だから、『孝義録』、『孝義旌表録』に登場する奇特者などは、官公認の、模範・手本となるべき義人、義民ということになろう。ただ江戸時代、とくに「義民」といった場合、わが身を捨てて直訴や一揆を先導した人物をさす場合が多い。
小倉藩領には一揆そのものがほとんどなかったので、「義民」伝説も無いのだが、幕末・維新期の史料には、それらしき行動をとった人物が何人か登場する。ただ、どれも史料が少なく、詳しいことは知り得ないのだが、仲津郡沓尾村(現行橋市)平次郎の場合は、断片的ながらも、少しだけその人物像に近づくことができる。平次郎は、慶応二年(一八六六)八月一日の小倉城炎上直後から領内で起こった打ちこわしの内、仲津郡のそれを主導した人物の一人であった(国作手永大庄屋文久元年日記七月二八日条)。
平次郎の名前が最初に確認されるのは、文久元年(一八六一)で、野相撲(素人相撲)の力士としてである。しこ名は「若の浦」。この年は雨勝ちであったため、小倉祇園社(現小倉城内の八坂神社。当時は城下鋳物師町に所在)で、七月二九日から五昼夜の日和乞いが行われた。その最終日に領内各郡から一〇人ずつ力自慢が集められ、神事として相撲が執り行われたが、平次郎は仲津郡の代表一〇人の一人であった(国作手永大庄屋文久元年日記七月二八日条)。
再び平次郎が史料に登場するのは慶応二年(一八六六)である。この年の七月、平次郎は杉生募という郡代(農村支配の最高責任者)の家臣として召し抱えられることになった。前年から小倉藩では、第二次長州征討を控え、不足する兵力については、領民を召し抱えることで対処するよう藩士へ命じていた。さらに、戦争が本格化した慶応二年七月頃に至っては、戦力増強のため、勇気があって喧嘩好き、命をも顧みないような豪気の人物を捜し、召し抱えることになったのである。平次郎にも白羽の矢が立ったが、どういうわけか、この時彼は入牢していた。喧嘩でもしたのであろうか。とにかく平次郎に声をかけたところ「身を投げ出し、どのような御用も勤めましょう」との返事であったため、赦罪され、杉生募に召し抱えられたのである(国作手永大庄屋慶応二年日記七月六日条・七月一〇日条)。
一カ月もしない内に、彼は同じ沓尾村の五郎八とともに仲津郡の打ちこわしを主導することになるが、そこにまで至る経緯は不明である。ただ、打ちこわし鎮静後、五郎八は剃髪の罰で済んだが、平次郎は斬罪となっている(同前八月九日条)。平次郎の行動に、わが身を捨てて藩権力に立ち向かった「義民」の姿を重ねたくなるが、残念ながらこれ以上のことは分からない。