石高制と石高の変遷

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 近世における税制を考えるとき、石高制によって示される基本的な価値基準を理解しておく必要がある。主要な産業が稲作を中心とする農業であった近世においては、幕府や藩の主たる財政収入は、農民(国民の八三~八四%を構成)が納める年貢(ねんぐ)(米の現物納)であった。つまり大多数の国民が共有できる価値は米だったのである。
 税を米で取り立てるしくみを全国レベルで確立したのは豊臣秀吉である。秀吉は、さまざまな農作物を栽培しているために、効率的で公平な課税をしにくい畠や宅地(居屋敷(いやしき)という)についても、農業生産の価値を米に換算して示した。つまり、豆類や大根やニンジン、野菜などの農作物を、米だったら○石○斗になりますと表示する石高制を確立し、この制度をもとに徴税するしくみをつくったのである。また、田も畠も土地の善し悪し(土質)によって生産性が異なるので、生産の多少によって田畠を等級に分け、できるだけ多く、できるだけ公平に徴税できるようなしくみをつくった。
 現在であれば、サラリーマンで三〇万円の月収といえばその人の財力をだいたい知ることができるように、三〇石の米がとれる農地を持っている百姓とか、三〇万石の米がとれる領地を持っている大名とかいえば、同じ米という価値基準でその人の財力をはかることができた。石高や徴税の原則を立ててしまえば、税を米という価値に一本化するので、徴税・納税ともにやりやすい。石高制とは、お金の代わりに米で農民や武士の収入基盤を表現し、課税したり知行地として支給したりするために考え出された制度である。ただし、米はお金と違い、年によって生産量が変わり、当然米価も上下し、またかさが大きく重くて扱いにくく、虫やネズミに食われるし、劣化するので長くは保存できないという弱点があった。
 石高の種類は大きく二つあった。幕府から領地を拝領した時の朱印高(拝領高)やその後開発した新田高の一部を加えて幕府に届け出た「表高」と、大名が入国後自ら調査して課税基準と定めた「内高」の二種類である。
 小倉藩における全村の石高としては、元和八年(一六二二)の人畜改帳、正保国絵図(正保期は一六四四~四八年)、豊前国高帳(一七〇二、元禄一五年)、天保郷帳(一八三四、天保五年)、旧高旧領取調帳の高(幕末から明治初期の石高)の石高が残されており、部分的には寛永九年(一六三二)や宝永三年(一七〇六)の水帳などからも村高を見出すことができる(以下、それぞれの年号をとって、元和高、正保高などというが、旧高旧領の高のみ旧高という)。
 これらの石高のうち、水帳に記載する高は当然、徴税に用いたが、正保高、元禄高は徴税には用いず、天保高は徴税に用いたと考えられている(豊前市史、以下『豊前』と略記する)。
 表1・2は、右に紹介した史料から本市域農村の石高だけを拾い出したものである。表1は、江戸時代を通じて分村したり村高を入れ替えたりしなかった村々について、増減高1の多い村から順に並べ直し、村高の変化を調べたものである。また、表2は分村したり村高を入れ替えたと推定されているために村高の単純な比較ができない村の高である。なお、表1も表2も、徴税用と推定される高(以下、内高という)と公式の高(表高で徴税には用いなかったと推定される高)に分けて表示した。
 
表1 行橋市域内農村の石高推移
村名徴税に用いられたと推定される村高について公式の村高について
元和8年(1622)人畜改帳寛永9年(1632)水帳宝永3年(1706)水帳天保5年(1834)郷帳倍率1(D/A)天保高中の新田高本高(D-E)増減高1(F-A)(幕末~明治初期)旧高旧領倍率2(E/D)増減高2(G-F)正保年間(1644-48)正保国絵図倍率3(H/F)元禄5年(1692)豊前国高帳倍率4(I/F)
ABCDEFGHI
上稗田839  9941.1878916779810.99-135900.645840.64
道場寺553629 8461.53217629768320.98-145600.894800.76
津積482  5551.1527528465210.94-343400.643410.65
小犬丸258275 2901.1214276182840.98-61900.692100.76
大橋1,5061,517 2,4241.619071,517112,1280.88-2961,4400.951,1580.76
入覚1,103  1,1831.07711,11291,1921.0197800.707860.71
津留651655 7181.106265657741.08564600.705000.76
吉国438  4601.051844244771.04173000.683120.71
長木429  4901.145843234931.0133300.763050.71
馬場333335 3481.051233633511.0134101.222560.76
辻垣261  3071.184426323201.04131900.722000.76
松原517  5801.126151926061.04263900.753950.76
流末540541 5811.083954226221.07413500.654130.76
宝山6036096046151,021060526090.99-64300.714610.76
矢留507  6101.2010250816361.04263500.693870.76
稲童907  9721.076490811,0021.03302900.324070.45
高瀬474  5071.073247515091.0023400.723620.76
宮市582736 6181.063558316341.03164100.704440.76
天生田827  8771.064982818831.0165800.706320.76
二塚499  5291.062950015260.99-33600.723530.71
大谷556  5881.063155717191.221314100.743930.71
大野井1,046  1,1021.05551,04711,9121.748107500.727990.76
中川270  2781.03727112760.99-21900.701910.70
常松115  1181.03211611170.99-1800.69810.70
蓑島23  301.307230280.93-2100.43170.74
下崎662  7281.106666207941.09665100.774680.71
須磨園250  2591.04925002581.00-11700.681760.70
延永781  7921.011178107880.99-45400.695520.71
福丸312  3571.1446311-13881.09312300.742200.71
草場803801 8231.0222801-28191.00-45700.716110.76
崎野350344 3621.0317345-52720.75-902400.702630.76
長江361355 3671.0212355-63650.99-22900.822710.76
高来408  4111.0110401-74121.0012800.702830.71
長尾256  2711.0626245-113311.22601700.691720。70
行事703  9931.41407586-1178970.90-966501.114140.71
西谷640  5220.8215507-1333920.75-1304500.894530.89
『福岡県の地名 日本歴史地名体系41』付録より作成

表2 行橋市域内農村で石高の移動があった村
村名元和8年(1622)人畜改帳寛永9年(1632)水帳宝永3年(1706)水帳天保5年(1834)郷帳天保高中の新田高本高(D-E)(幕末~明治初期)旧高旧領正保年間(1644-48)正保国絵図元禄5年(1692)豊前国高帳備考
ABCDEFGHI
矢山108  11723941221073慶長年間に京都郡矢山村から分村、正保国絵図では区別
草野777  68671615666550550分村(寛文9年までに)
長音寺   1674163166  
今井9751,156 1,0662478191,207840 分村(金屋村:寛文年間以降ヵ、真菰村:正保国絵図では「今井村之内」)
金屋132 214713499214543130100
真菰  1751838175183  
元永1,0501,150 1,4523021,1501,3709101,035分村(正保国絵図では「元永村之内」)
沓尾  29451530125  
徳永396  44349394373350278公的には徳永村、正保国絵図では「袋迫」、承応4年(1655)に分村ヵ
袋迫      127  
下稗田1,264  1,3841421,242871940878分村(公的には「下稗田村之内」、領内では18世紀後半頃独立扱いヵ)
前田村      478  
上検地847  54615531493580587分村(正保年間以降)
下検地   3087301349  
下津熊566  20710197219430139分村(元禄国絵図より前に)
中津熊   56021539542 380
上津熊302  2577250255170176※下津熊村の分村時に一部割譲ヵ
羽根木50848940747568407463250373一部を金屋村へ(宝永水帳以前)
竹田14214235436511354360100270村高入替(宝永3年水帳)
平島72173652456237525562520400
柳井田25927736940233369398200212村高入替(宝永3年水帳)
竹並51953744650935474468390410
寺畔56257545647922457574410347村高入替(宝永3年水帳)
福富41041553355623533596670692
『福岡県の地名 日本歴史地名体系41』付録より作成

 これらの表から、次のことが指摘される。
 元和高(表1中のA)と寛永高(同B)を比べると、後者の例は少ないものの、一八一石増の今井、一五四石増の宮市、一〇〇石増の元永、八六石増の道場寺という四カ村が非常に目立っている。わずか一〇カ年の間に、一カ村でこれほどの新地開発が可能であったとは考えにくい。あるいは、この間に村高入れ替えなど、村域の変更が行われたとも考えられる。
 寛永高と宝永高(表1・2中のC)を比べると、これも少ない事例ではあるものの、約七〇年の間にすべての村高が変化している。次に述べる第三の指摘から、両帳簿の記載に関する基準が異なっていることが、石高差を大きくした要因と考えられる。
 宝永高(表2中のC)をみると、これも事例は少ないが、天保高中の本高(同F)と同じか、ごくわずかの差しか認められない。したがって、宝永の水帳は本高のみを記載する帳簿と推定される(新地の帳簿が別にあったのではないだろうか)。
 天保高は、本高(表1・2中のF)と新田高(同E)の合計である。このうちの本高を元和高と比べると、表1の増減高1に示すように、一〇石以上の増減を示すのは、増石が上稗田など五カ村、減石が西谷など三カ村だけである。ところが、増減一〇万石未満ないしは増減なしという村は、二四カ村と圧倒的に多い。このことは、江戸時代の本市域には、ごく一部を除いて、開発すべき余地等を持たない村が多かったことを示すと考えられる。
 旧高は、天保高に比べると、表1の増減高2に示すように、高そのものには変化がみられるが、倍率2からみれば、〇・九~一・一倍の村が多く、さほど大きな変化を示さない。なお、大橋村の二九六石減、西谷村の一三〇石減や、大野井村の八一〇石増、大谷村の一三〇石増はかなり大きな高であり、それぞれの村に特別な事情があると考えられる。
 公式の高については、正保高は、表1の倍率3の場合、本高のおよそ七〇%前後という村が多いものの、八〇~九〇%台の村もあり、かなりばらついている。ところが、元禄高については、倍率4に示すように、稲童・上稗田・堤・西谷の四カ村を除き、すべて本高の七〇~七六%に設定した高であることが指摘できる。

 本市域の村高を検討する限り、右のように指摘できるが、今後、領内の他地域でも同様な調査を行って、右の指摘が有効かどうか、確認する必要がある。