課税対象は、農作物という当時最大の富を生み出していた農地であり、大きく二種類に分けられ、それぞれ課税率が異なっていた。主たる農地は、長い間農地として使用され、収穫高が多くまた安定している「本田畠」であった。土質によって生産量が異なるため、幕府や藩は何等級かに分けて課税したが、小倉藩では、細川氏の時代(一六〇〇~三二)に、図2に示すように、田も畠も上々・上・中・下・下々の五等級に分け、等級ごとに一反あたりの標準的収穫高を定めた(これを石盛という)。田の場合であれば、反当たり一石六斗の米を収穫できる田を上々田、一石五斗であれば上田、以下二斗下がりで中、下、下々田と定めた。畠は、上々畠が九斗、上畠が八斗、以下二斗下がりで中・下畠、一斗下がりで下々畠とした。畠は田に比べると石盛が低いが、それは畠の作物が米より安価であったからだけではなく、主として農民の食料であったからである。
図2の石盛は一〇年間の収穫高を平均して算出したという。石盛が確定すれば、一人一人の百姓がどれくらいの米を平均的に収穫するか(持ち高はどれくらいか)、税をどれくらい納めるのか、簡単に知ることができる。田畠の等級ごとに面積と石盛を掛け合わせそれを合計すればその百姓の持ち高(石高)となり、持ち高に税率をかければ納税高(本年貢)を計算できる。
なお、江戸時代の百姓には土地の所有権が公式には認められず(全国の土地の形式的所有者は将軍)、農地を耕作し農作物を栽培し収穫する権利(耕作権)だけが与えられた。そこで、実際は先祖伝来の耕作地を所有する百姓を、土地を持っているのではなく、耕作権しか持たないという意味をこめて高持百姓(本百姓)という。また、高持百姓から農地を借りて耕作し、地代を払うとともに年貢をも負担する貧しい百姓を無高百姓(水呑百姓)という。
次に、持ち高の算出法を例をあげて確認してみよう。茂作という高持百姓が、上田・中田・下田・上々畠・中畠を、例1に示すように持っていたとする。上田七反五畝一五歩で考えると、その石高は、
(75+15÷30)÷10×0.15
という計算式で算出できる(勺の単位で四捨五入、以下同じ)。
例1 茂作さんの持ち高(石高)計算 | ||
《たんぼ》 | ||
上田 | 7反5畝15歩 | (75+15÷30)÷10×0.15=1石1斗3升3合 |
中田 | 1町2反3畝10歩 | (123+10÷30)÷10×0.13=1石6斗 3合 |
下田 | 2町5反8畝3歩 | (258+3÷30)÷10×0.11=2石8斗3升9合 |
たんぼの持ち高合計は5石5斗7升5合 | ||
《はたけ》 | ||
上々畠 | 1反5畝 | 15÷10×0.09=1斗3升5合 |
中畠 | 7反6畝12歩 | (76+12÷30)÷10×0.06=4斗5升8合 |
はたけの持ち高合計は5斗9升3合 | ||
※茂作さんの持ち高合計は6石1斗6升8合 | ||
税率が40%であれば、年貢は2石4斗6升6合 | ||
付加税を加えれば、上納高は3石2斗2升4合 |
この計算式で注意することは一畝は三〇歩、つまり三十進法という点である。畝以上は十進法なので、歩の単位も十進法になおさなければならず、その上でこれを七反五畝と合計すると、上田は畝という単位での面積として表示される(七五・五畝)。ところが、石盛は一反あたりの標準的収穫高なので、畝で表示した面積を反に直すために、一反は一〇畝だから一〇で割ると七・五五反)。これに石盛一斗五升を掛けるが、石で表示したいので〇・一五をかける(一斗五升は〇・一五石)。以上から、茂作さんの上田は一石一斗三升三合の標準収穫高となる。
同様に中田以下を計算していくと、茂作さんは田を五石五斗七升五合、畠を五斗九升三合持っており、持ち高合計は六石一斗六升八合の本百姓となる。
茂作さんの税率が平均的な四つ成だったとすれば、年貢は待ち高×〇・四であるから二石四斗六升六合となり、付加税を加えた上納高は三石二斗二升四合で持ち高の五二・三%となる(付加税とその計算法は第二項参照)。
もう一つの農地「開(地)」は、開墾して間もないことから、生産量も少なく安定もしていない農地で、課税率が低かった。小倉藩ではこの土地を「新地」と称したが、小笠原氏は、細川氏持代以降貞享年間(一六八四~八八)までに開墾した農地はすべて本田畠に繰り入れ、その後に開墾した土地だけを「新地」と定めた。ただし、本田畠に繰り入れた開墾地も税率を低くしたから、収穫がよい本当の意味での本田畠と同じ扱いをしたわけではなかった。新地は課税率によって、「本免新地」(本田畠と同じ税率)、「半免新地」(本田畠の半分の税率)、「見掛新地」(収穫が低いためその年の収穫に応じて課税したり下々田の石盛の半分に課税)に分類した。
本年貢の外には、石高の何%を納めなさいとする「高掛物」も税の一つであった。代表的なものは、本田畠石高の五%を納めさせた「五歩種子利米」や四つ高(第三項参照)の二朱五厘(〇・〇二五%)を納めさせた「二朱五厘米」などである。農地以外にも、山や川、海などでは鳥獣や果物やきのこ、魚や貝などがとれるので、このような用益権に対しても「小物成」という雑税をかけた。また、体を動かし頭を使っていろいろな仕事ができる人間、とくに成人男子には「夫役」という人頭税をかけ、公共の土木工事などで働かせた。
三〇〇年近く続いた江戸時代において、私たちの祖先は営々と努力を続け、鎖国という条件下に国内の商品経済・貨幣経済を著しく発展させ、各地に特産品の産地を生み出した。地方にも流通の核となる都市が発展し、一九世紀には一部産業においては工場制手工業も始まった。しかしながら、税のしくみを根本的に変えるまでには至らず、終始一貫して、主たる税は、田畠から生じる富を米という現物で徴収する本年貢や高掛物であった。
石高についてはこの程度でとどめ、次に各種の税について解説しよう。小物成・高掛物・夫役はあとで取り上げることとして、まず本年貢について考えたい。