本田畠に課税したのが「本年貢」で、検見取(けみどり)法から定免(じょうめん)法に移行したあとは、一人一人の百姓の持ち高(面積×石盛)に税率(免)を掛けて計算したと考えられる(検見取法・定免法は本項の本年貢の徴収法と付加税を、計算法は第一項の例1を参照)。年貢は、一つの村の全百姓が納める分を村が集め、藩に納めた。このように、村人の年貢納入を、藩に対して村が請け負う制度を、「村請制(むらうけせい)」と呼んでいる。各村の年貢は、地域ごとに設けられた藩の蔵に納めたが、仲津・京都両郡の村人は、京都・行事・仲津・大橋の四つの郷蔵に納めた。そのあとは、翌年春までに、藩の役人が小倉城の本蔵までこれを海上輸送した。
郷蔵までの運送費は、五里以内は農民負担で(原則として一里は三六町で約四キロメートルなので、五里は約二〇キロメートル)、五里を超える距離の運賃は藩から支給する定めであった(ただし、五里を超える村は田川郡にしかなかった)。言い伝えによると、馬の背に俵二俵を振り分けに積んで郷蔵に年貢を運んでいると、疲れた馬が道ばたの草の方へ草の方へと行きたがるので、できるだけ道草させないように誘導するのはたいへんだったという。
小倉藩では、平均的な量の米を収穫できる田んぼの場合、その四〇%を税として収納するというのが基本で、これを「四つ成(なり)」と呼んだ。土質が悪くて収穫が少なければ三五%(三つ五分成)や三〇%(三つ成)というように税率を下げ、逆に土質がよくて収穫が多ければ四五%(四つ五分成)や五〇%(五つ成)、最も高い例では七三%(七つ三分)という税率を課した村もあった。藩は、土質だけではなく五~七年間にどれくらい税を納めたかという過去の実績も参考にして、年によって過不足が生じることがないよう、できるだけ適切な収納を試みたとされる(郡典)。