このような内高の決め方は農民にとって不満であったと考えられるが、一七世紀前半は幕府も藩も強圧的な政治を行って、支配体制の基礎固めを展開したので、農民が幕藩に対して内高の修正を要求することは困難であった。小笠原氏は細川氏の内高一九万八八七〇石余を受け継ぎ、時々の調査で把握した新田高を本高に加算していった。また、小倉藩は寛文一一年(一六七一)に新田藩を創設した時に、実態を無視して特定の郡の石高を高めに修正しており、農民間の不満が高まった。そこで、寛永三年(一六二六)、京都・仲津・企救・築城の四郡と上毛郡の六〇カ村に限り検地を行って内高を修正し、年貢徴収の台帳である水帳を新たに作成した(田川郡は延享三年〔一七四六〕)に水帳を改正した。
図3は、「旧租」に記す各郡の税率ごとの村数(構成比)を、積み上げ棒グラフで示したものである。村の税率は、その村の生産性すなわち村位を示すものでもあるが、この税率がいつの時代のものでどのようにして計算されたかは不明である。また、郡ごとにまとめているので、郡の生産性を直接示すものではないにしても、その傾向を知ることができる。
図3 各郡の税率別村数構成比
(注)『豊前旧祖要略』より作成。
ただし京都郡の3つ5歩以上の村数は『豊前旧祖要略』に誤植があり計算が合わなかったので、
縦横の合計から正しい数値を導き出して用いた(村数10は16の誤り)。
京都・仲津・上毛の三郡は残りの三郡に比べて、四つ成以上の村が少なく、六〇%程度である。また、四つ成以上の村では、京都・仲津両郡が同傾向、四つ成未満の村では上毛・仲津両郡が同傾向を示している。全体的には、築城郡が五つ成以上という生産性の高い村がずば抜けて多く、田川郡では四つ成以上の村が八〇%以上を占めている点が目立ち、郡によって何らかの特別の要因があったと考えられる。