検見取法は、図4に示すように、下見(内見)→小検見→大検見という手順をへながら、まずは農民側に内見帳を作らせ、次に役人が出張って、農民を立ち会わせながら実際に坪刈(つぼがり)をして、生産状況を厳正に調査する。また村内各地を歩き、農民と接することによって村況を実地に見聞し、体験しながら事実を把握する方式であり、最終的には、代官が部分的な再調査を行った上で、実情に合った年貢高を決めたという。
下見 | 村役人と百姓が立ち会い、村内の一筆ごとの立毛を見分して内見帳を作成して役所に提出する。役所で十分調査確認する。この時に村内耕地絵図をも提出させる。 |
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小検見 | 村方が作成した帳簿を参考に、代官手代が数組に分かれて村内各地で坪刈を行い、五合摺の換算で村内全体の米穀生産量を推定する |
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大検見 | 代官が直接回村して坪刈を行い、小検見の結果と対照させて、その年の貢租料を決定する |
小検見から大検見まで時間がかかりそうな場合は、田ごとの中央を二間四方ほど刈り残して札を立て(これを検見立という)、あとで代官の見分を受ける | |
(大石慎三郎校訂『地方凡例録』より作成) | |
図4 検見取法の手順 |
この方法でも、細かく考えれば、坪刈をする場所の選定や一坪の計り方など、農民と対立する場合もあったが、問題が生じないように、農民もできるだけ納得できるようなしくみを確立している(減税の箇所を参照)。何よりも、多くの人々が注視する中で、慎重に一坪を測定し、稲を刈り取って脱穀し、実際に籾(もみ)の取れ高を秤(はか)るという点で、より正確な生産量の把握が可能となり、その上で決められる納税高に異論を唱えることはむつかしかった。
しかしながら、毎年全藩域に役人を出し、坪刈りした上で物成高を確定するのはたいへんな作業であり、多大の日数と経費がかかった。そこで、定免法(じょうめんほう)、すなわち、豊作年であっても凶作年であっても、よほどの凶作でない限り毎年一定の税率で徴税する方式に変わっていった。定免を採用するにあたっては、表面的には石高×免率で年貢高を算出したように見えても、現実には、過去の物成実績を参考に、より実態にあった年貢高になるよう配慮した。なお、定免に移行すると、検見取法は、大雨洪水や害虫などによって収穫が大幅に減ることが明らかで、定免ではとうてい納税できない時だけに、農民が減税のための調査を申し出る「破免検見(はめんけみ)」のしくみとして残された(「破免検見(はめんけみ)」などの減税については別に説明する)。
再び話を戻すと、本年貢にはさまざまな名目の付加税が課された。小倉藩では、延(のべ)米や口米、延の口米、薪代米、夫柄米(ふがらまい)、薪代・夫柄代延米という六種類の付加税が加えられたので、図5に示すように、本年貢一石を納める場合で計算すると、実際には一石三斗七合三勺余を納めることとなり、全体を一〇〇とした場合、実にその二三・五%が付加税というありさまであった。
なお、「郡典」によれば、一俵を単位とする計算では、付加税込みで四斗、これに「団扇打込(うちわのうちこみ)」と号して一斗につき一合ずつ合計四合を加え、四斗四合にするのが慣例であったが、百姓によって多かったり少なかったりした。そこで、一俵は四斗八合入とすることに決め、間違いが生じないように、毎年秋に郡代が条目を出して通達していたという。ところが、いつの頃かは不明であるが、郡方役人が、四斗につき二升を追加するのは「天下通例の五ノ口」(一般に行われている五%の付加税)と考え、「団扇打込」の四合を引いても四斗一升六合は納めよと主張して、不足する俵にはその分を「込ミ米」と称して追加させた。百姓も昔からの「仕癖(しくせ)」で二升宛の入り米をしてきたので、一俵には四斗二升入れるようになった。その後、文化年間(一八〇四~一八)に至り、築城郡代官の小出段蔵が、椎田蔵への納米量が不足していると苦情をいってきたことをきっかけに、再び元のように一俵四斗八合入に戻ったという。
このやりとりについては、郡方役人が主張するように、年貢米一俵は三斗三升入りだから付加税は九升六合八勺余となり、一俵には四斗二升六合八勺余入れなければならない。したがって、一俵に四斗八合しか入れない方がおかしいのであるが、この当時には、一俵を四斗八合に決めた何らかの事情があったと考えられる。農民にとっては、石という単位で計算するにしても、俵という単位で計算するにしても、全体として納入する年貢とその付加税の量は同じである。ただし、俵に入れて納めるから、一俵に入れる米の量が多ければ俵数は少なくなり、逆に少なければ俵数は多くなる。小出段蔵は過去の納米量を帳簿で調べ、俵数でみれば減ったことに気づいたのであろう。俵数が減った結果どういう問題が生じたかについて「郡典」は何も記さないので、これ以上は追求できない。ただ、時代とともに、郡方役人の中にも事情を知らない者が増え、百姓が迷惑したことだけは指摘できる。