減税

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 定免法に移行したのちも、農民の手元に生活費さえ残らないような大凶作の場合には、「破免検見」が行われた。「破免」という言葉が示すように、「定免」を破棄し、「検見」を行ってその年の収穫をはかり、実際の収穫に応じた物成高にする(減税する)ための手続きである。
 小倉藩では、図6に示すように、「下見」→「中見」→「上見」という三段階の手続きが必要で、なかなかたいへんであった。「上見」が減税の最終調査と減税額を決定する場面で、一郡につき四人の検見役人が出張ってくる(二手に分かれて調査することもあった)。まずは下見帳に間違いがないか、二〇筆も三〇筆も無作為に選んだ田を調査し、その途中で二、三回の坪刈りを行って、収穫高の減少を確認した。早田・中田・晩田ごとの平均的な生産量を把握し、平年の年貢高に一反当り三升の「夫食米(ふじきまい)」(食料や肥料代など農民の生活費)を加えた高との差額分が減税とされる規定であった。しかしながら、この方法はあまりにも作業がたいへんで、藩にとっても農民にとっても不都合であったから、寛政年間(一七八九~一八〇一)頃から、「皆損引(かいそんびき)」、「免相引(めんあいびき)」が一般的に行われるようになった。
 
下見庄屋と方頭、組頭、頭百姓等が立ち会い、早田の立毛状況を見分。諸所に試枡を入れ(これを内枡という)、「下見帳」を作り、下見済みを申し出る。見分田には、各田坪ごとに「野札」を立てる。中田、晩田もおなじ手順。
下見帳には一筆ごとに字番号、反別とその地位、作稲の名、見極め歩、籾の合付、地主名を記す。野札も下見帳と同じ。
中見村方が作成した帳簿を参考に、郡手代、大庄屋、子供役が中見し、申し出が適正と判断した場合は、検見役人の出張を請求する。
上見検見役人が筋奉行、代官とともに回村して、その村の貧富その他を直接聞きただし、農地を実地調査する。早田、中田、晩田それぞれについて、実際に数か所坪刈して平均的な生産性をつかみ、この三種をさらに平均してその村の収穫量を計算し、平年の物成高に一反あたり三升の夫食米(農民生活の維持費にあたる)を加えたものとくらべて、マイナスとなった部分を減税額とする。なお、坪刈する場所は、下見帳の順番を無視して、かつ農民の意表をつくような場所を選ぶ。早田、中田、晩田ごとに検見帳を2冊ずつ作成し、1冊は役所に、1冊は検見役連署付方に提出。
枡衝(坪刈とその後の検秤)は、検分の三分の一が済んで第1回目、半分が済んで第2回目を行うのが内規。検見役人の考えまたは村人の希望で第3回目を行うこともあった。
図6 破免検見の手順

 なお、図7~8は、坪刈り(小倉藩では「枡衝」と記す)の手順である。一坪の角々の決め方は、畦から一間(六尺五寸、約二メートル)離して第一竿、次が左の第二竿、次が右の第三竿、最後に第四竿を立てると決まっていた。また、一坪内の稲の穂数を農民に大声で数えさせて間違いがないよう確認したり、籾の毛落としは向かい合った二人が草履(ぞうり)で三回以内摺り落とすとか、この作業は農民の男性がする、または女性がする、あるいは枡取(ますどり)手代がするというように、具体的に決まっていた。「枡衝」は、それらの決まり事に従って整然と行われたのであり、この手続きを確認するだけで、ピーンと張りつめた現場の雰囲気が伝わってくる。
 
図7 枡衝の手順-坪刈り-
図7 枡衝の手順-坪刈り-

 
⑥村婦に、2~3穂ずつの稲から新むしろの上に籾を扱き落とさせる。
⑦対面する二人の村夫に、草履で籾の毛を摺り落とさせる(ただし、摺り落としは3度以内)。
村婦に簸揚げさせ、簸先3寸は死米として、升取手代が切り落とす。死米とは悪米のこと。
⑨枡に親指をかけて籾をはかる。その理由は干減があるため。
図8 耕衝の手順-将衝-

 次に「皆損引」、「免相引」について考えてみよう。
 「皆損引」とは、一坪の収穫が二合以下である場合に、収穫の全部を百姓の生活費に回させ、租税は全く免除するものである。もちろん皆損引を承認するための検見が必要で、手続きは「破免検見」と同じであった。また「免相引」は、まず、一郡ごとに大庄屋と検見役人がそれぞれ独自に農村を調査して、「落毛田」(損毛田で「皆損田」を含まない)に関する租税の不足見積書を作成し、その後郡役所に、筋奉行、代官、検見役人、大庄屋が集まってこれを比較検討し、最終的には郡代が採決して、その郡の物成(これを免相という)を決定するという方法である(この結果減税される年貢米を「免相引」という)。
 大庄屋の検分においても、数カ所で「試枡(ためします)」(坪刈りのこと)をして、各村で庄屋以下が行った「下見」が、きびしすぎないかゆるすぎないかも十分検討しながら、「落毛田」の生産性をできるだけ公正に調査した。これに対して検見役人は、大庄屋が代官に提出した「落毛田下見帳」を参考にしながら、野札と帳簿を照合して、各村の「野積(のづもり)」(租税の不足見積)がきびしすぎたりゆるすぎたりしないかだけを見極めたという。つまり検見役人は坪刈りをせず、帳簿を引き合わせながら実際に現地の様子を見たにすぎず、その意味では正確さに欠けていた。彼らは、全村の検査を終わったあとに休泊所で意見を交換し、各村の租税の不足米を見積もった。
 大庄屋と検見役人の見解が異なり、大庄屋の主張が採用されない場合には、「免相拝借」という資金貸し付けの制度が適用できた。大庄屋にいわせれば、検見役人の主張する年貢はとうてい納めることができないわけで、それでも納めよといわれれば借金するしか手だては残されていない。かといって、どこでも気軽に貸してくれるわけではないから、藩が貸し付けの道筋をつけたのである。大庄屋は、筋奉行に直接これを申し込み、筋奉行から郡代という手順で「免相拝借」の手続きに入った。これは、上納できない年貢をいったん村方が借り受けた形にして、無利息の十カ年賦で返済するというしくみであった。