差上米

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 「差上米」は「願上米」、「出精米」とも称し、税率を低くした礼として農民の方から願い出て差し上げるようにしたという説(差上米・願上米のいわれ)や、毎年農民が多額の根付料を借りこれを返せなかったので、これを税として徴収するようになったという説(出精米のいわれ)がある。ただし、藩財政の窮乏の中で増税策の一つとして始まった、というのが正解ではないだろうか。
 初めは収穫高の多少により増減があったが、のちに、表3に示すように定額上納になった。「旧租」によると、企救郡では寛政期(一七八九~一八〇一)から四つ高の四分五朱(四・五%)を上納することになったというが、七〇〇石から逆算すると郡高はわずか一万五五五石余となり、郡の平均課税率は一・五~一・七%程度であったことがわかる。村によっては半分の税率でもよく、村差があったとも記すので、全郡にならすと三分の一という低い税率を示してもおかしくはないのかもしれない。
 
表3 郡ごとの差上米高とその構成比
差上米高構成比
京都25010.4
仲津33013.7
企救70029.0
田川80033.1
築城2008.3
上毛1355.6
合計2,415100.0

 同表に示すように、差上米は全郡で二四一五石で、京都・仲津二郡では、全体の約四分の一にあたる五八〇石を負担していた。なお、これは歩掛米(ぶかけまい)(高掛物)の一種であるから、歩掛米として一括徴収し、その中から藩庫に納入したという。