これは、貞享元年(一六八四)に、企救郡の小倉・大里両駅の人足や馬を補助するために設けられた税である。当初の税率は二朱であったが、元禄一〇年(一六九七)以前に五厘増税したので「二朱五厘米」と称するようになり、筋奉行が管轄して、百人夫による企救郡の主要道路補修や定雇い人馬の経費に用いた(百人夫は道路や橋などの補修をする夫役で企救郡に課された夫役)。
その後、明和八年(一七七一)に筋奉行の管轄からはずして郡土蔵納に改め(全郡への拡大)、企救郡に渡す百人夫給や出人馬扶持も郡土蔵渡しに変更し、夫遣方(ふづかいかた)という役職を新設した(郡土蔵は筋奉行の配下、領内支配組織図Ⅱ参照)。夫遣方に関する資料を欠くが、藩の組織図によれば(領内組織図Ⅰ参照)、代官のもとに郡方夫遣役があり、その下に百人夫を直接監督する百人夫頭がもうけられている。この背景には、次のような時代の変化があったと考えられる。初めは、主たる宿駅を結ぶ街道の補修が問題であったことから、企救郡だけに百人夫をもうけていたが、次第に他の宿駅や街道の利用率が高まり、企救郡の百人夫がけでは手に余るようになった。そこで郡ごとに百人夫をもうけ、その経費を郡土蔵から捻出することにしたことから、二朱五厘米も郡土蔵納となった。夫遣いの多い企救郡にも援助し、郡土蔵から直接企救郡に渡した。ただし、これは推定であるから、今後の研究によって実相が明らかにされることを期待する。