五歩種子利米は細川氏が始めたもので、本高の五%にあたる石高の種籾代を貸し付け、元米は据え置きとし、毎年四割の利子を上納させるという制度であった。元米は据え置きであるが、農民には毎春これを貸し付け、秋に現物で返済させるから、常に新しい種籾が次の年のために準備される。(各村の種子蔵に入れ、筋奉行が封印した)。種籾の所有者は藩であるから、大庄屋は毎年新しく借用書を提出するという手続きをふんだ。京都郡の元米は一二三六石九斗四合七勺、利米は四九四石余であった。仲津郡は元米一八一四石八升八合五勺、利米は七二五石余であったが、同郡においてだけ、元米のうち五六石三斗一升四合を新田に貸し付けた。「旧租」は、元米に関し、企救郡の全部と京都郡の半分は藩主の私的な倉庫米を拝借し、京都郡の残り半分と残りの四郡は本倉庫米の拝借であったと記している。これは、利米の返還先ないしは利米の使用目的を指し示すものと考えられるが、詳細は不明である。