鶏卵代反別麦

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 鶏卵代・反別麦ともに目的税で、鶏卵代は灌流用樋管修繕代の補足に用いた。また、反別麦は畠に課すもので、当初は凶年時の住民救済用備蓄麦であったが、一九世紀には農村の諸費用にも転用され、社倉の性格を残しつつ住民税のような性格が加わった。
 鶏卵代は、享保一二年(一七二七)、郡代小宮佐次右衛門が開始した税である。本田と見掛(みかけ)新地を除く新地に課し、四つ高一〇〇石あたり一カ月に卵二〇個、一個につき銭二文ずつ、六月と一二月に二四〇文ずつを郡土蔵に納めさせた。もともと灌漑設備は官有で、その維持管理にあたる井樋方には井樋方定銀があった(井樋方は筋奉行の配下、領内支配組織図Ⅱ参照)。ただし、灌漑設備の現実的な維持管理は村方が行い、樋管取り替えに関する帳簿を作って定期的に交換した(井樋方に交換を申請してその指示に従い、古い樋管は返還した)。
 では、井樋方定銀や鶏卵代は、何に対してどのように用いたのだろうか。「郡典」には、鶏卵代は新開地の灌漑設備補修に用いたのではないかと述べているので、この推測が正しければ、井樋方定銀は本田の灌漑設備補修に用いたのかもしれない。具体的に考えると、樋管に用いる材木は藩有林から切り出すので原材料費は不要、切り出しや樋管の運搬、据え付けにあたるのは農民(夫役)であるから、これもまた原則として経費は不要である。考えられるのは材木の加工代であるが、これも井樋方配下に専用の大工がいれば経費は不要となる。
 結局、どのように使用されたか不明であるが、井樋方定銀は井樋方役所の経営費(筆紙墨など)であり、郡土蔵納であった鶏卵代は、その他の郡土蔵納諸税と合算され農村のさまざまな経費に用いられたのではないだろうか。
 反別麦は細川氏代以来の雑税で、小笠原氏もこれを踏襲したが、税率を二倍に増やし、麦蒔き畝一反につき大麦二升、小麦一升という規定に変更した(全郡で一三〇〇石余、企救郡のみは藩庫納)。なお、現物の麦はやがて劣化するが、翌年新しい反別麦が納められるまで放置した。文化・文政(一八〇四~三〇)頃から、納入後ただちに売却したり貨幣納に切り替えたりして郡土蔵の貨幣収入とし、それぞれの郡の仕入れ百姓の経費や、農民に対する金融の原資に用いた。なお、長い間に畠の状況も変わり、麦を蒔かないのに反別麦を課税されるなどの矛盾が生じたので、村によっては、毎年村役人が麦蒔畝を検査して課税するよう変更したという(旧租・郡典)。
 以下、反別麦について『椎田町史』が明らかにしたことについてまとめておこう。
 反別麦を貨幣納に切り替えた正確な年代は不明であるが、『中村平左衛門日記』によれば、企救郡では、文化八年(一八一一)に反別麦を藩札で代納した記録が初出で、以後毎年七月下旬に反別麦の代納を終えており、文化一四年以降は反別代納の相場を記している。麦の代価については、この年は代官による麦相場の連絡後に反別代納を行っているが、翌一五年以降は大庄屋が町内の大小麦の相場を藩に報告している。
 また、国作手永大庄屋の御用日記によると、反別麦の上納ないしは入れ替えの時期は七月で、前年度反別麦の残りの一部は農村へ支給した。文政三年の場合は、村々への配分高(二九五石)は全体の六九%を占め、残りの一〇〇石、二三%が秋の種子麦に、二九石、七%が新百姓の作食(さくじき)(農業経営上の諸経費や生活維持費)に使用された。文政六年の場合は、秋蒔き種子麦は総枠で一〇二石二斗少なく、新規の項目として類焼家や後家への援助が加わっており、鼠や虫の被害は五~六石で全体の一、二%程度であった。なお、新百姓仕居(しす)えのための作食拝借については、大麦一二石と小麦一五石を無利子で借り、来年から五年間かけて返済したいと願い出た文政九年の例があることから、新百姓への貸しつけの場合は、無利子、五年程度の中期年賦償還方式が行われていたものと考えられる。
 築城郡の文政三、六年の反別麦を見る限り、まだ社倉としての役割が濃厚のように思われ、企救郡のように代納ではない。同三年には、「仲津郡午反別残り麦」である大麦二石三斗、小麦一石五斗に関し、売り払うよう命じられたので代札を上納するという内容の証文があり、残りの麦を藩札に換算した「色替証文」を出している。この例からも、築城郡や仲津郡などでは、必要に応じてまず現物の麦を配分し、最終的に残った麦を郡の手永が買い取る形をとって代銀を上納し、これを郡土蔵の貸付資金としたのではないだろうか。このように、反別麦の徴収法や使用目的は郡によってかなり異なっており、今後の研究の進展が期待される。