米小物成(米で上納する雑税)には、請薮(うけやぶ)年貢、茶年貢、葭代米、竹皮代米、土手萱代米の五種があった。
「請薮年貢」とは、屋敷内の薮や農民所有の薮に賦課する税で、古薮は細川氏代からの薮、新請薮は小笠原氏代の宝永頃までに改め出した薮であるが、その後は調査しなかったので、田畠が薮になった場合や、逆に請薮が田畠や屋敷地に転換した場合でも、旧来の税額を上納した。請薮の石盛は畠と同じで、上々薮九斗、上薮八斗、中薮六斗、下薮四斗、下々薮三斗であり、免はなく本高がそのまま納斗となる方式(「本高スクミ」という)であった。本高一石につき二升の延米を負担したが、口米はなかった。米への換算は、高に二を乗じて算出し、これに〇・九六四一を乗じて京枡物成を出した。なお、請藪に生えた樹木の伐採は、仕立山と同様に藩の許可が必要で、竹は畠作物同様自由に伐採してよかったという(郡典)。請薮年貢は全郡で一二一六石余に及んだが、京都郡は一五三石八斗三升一合九勺、仲津郡は一七九石四斗四升三合五勺で、両郡合わせて全体の三〇%を占めていた(図9参照、本図を含め以下の図はすべて「旧租」から作成した)。
「茶年貢」は、細川氏代には栽培している茶そのものに課税したが、小笠原氏代になると茶とは関係なく賦課した(帳簿などは一切なく、ほとんどが村弁(わきまえ))。また、春に収穫した茶に対する税を秋に米で上納することから、春から秋までの期間は藩が農民に貸しつけたのも同然として、四割の利を加えた。京都郡は一一石六斗四合五勺、仲津郡は一九石四斗一升六合三勺で、両郡で全郡の三一%を占めた(図10参照)。
葭代米、竹の皮代米、土手萱代米は、葭や萱の刈り取り、竹の皮の拾得に対する課税(運上)で、いずれも細川氏代以来の税である(図11参照)。小笠原氏代には、葭や萱の刈り取りや竹ノ皮拾いは行われなくなったが、課税は続けられた。京都郡は竹皮代米八斗三升八合二勺を、仲津郡は葭代米一石一升六合六勺と竹皮代米四斗七升七合二勺を負担した。なお、土手萱代米は企救郡のみの負担なので省略する。
米小物成も減税されることがあった。請薮年貢の場合、企救・田川・京都・上毛の四郡で五四石余の減税措置がとられている。請薮年貢は、課税地が田畠や屋敷地に転換した場合でも旧来の税額を上納したというから、この場合は、川成や池成、道成などによる引高ではないだろうか。