銀小物成

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 銀小物成は、銀貨で納める雑税で、薪札、諸種小物成、糠藁の代銀納分、山方運上銀、請木荷数の五種類であった。
《薪札》 小笠原氏の入国当初、山林はすべて藩主の山林であったから、領民は分限に応じて運上銀を支払い入山許可証(馬札・歩行札)を受け、下草や枝葉を刈り取った(山は「山ノ口」が管理)。百姓への割り当ては、本百姓は四つ高、無高百姓は家数を基準とした。のち、札請にかかわりなく入山し、高割、軒割などで運上を納めるようになったが、村の大小と運上高との間に矛盾が生じ、また、運上を納めない浦浜が増えたので、元禄一五年(一七〇二)、四つ高一〇〇石につき銀一匁五分の馬札三枚と銀七分の歩行札六枚を交付し、無高の場合は一〇軒につき銀七歩の歩行札五枚を交付することに改め、一村ごとに一枚の大木札を庄屋に渡すことにした。これを「門別運上」という。この改法によって各村の運上銀が増えたので、従来から納めてきた銀高は本土蔵(藩庫)納、増加した分を郡土蔵納に改めた。
 そののちも数度の改正があり、運上銀高も上下したが、元文(一七三六~四一)年中に、延享二年(一七四五)から元禄一五年(一七〇二)の運上銀高に戻して固定した。勘定帳の上では旧来同様に各自が納める形式をとり、一枚につき銀三匁、二匁、一匁五分、一匁、五分という五等級に分けて記載した。なお、薪札は本来山方銀のうちに組み入れるべき性格のものであるが、「小物成勘定帳」を作成して納める慣行であった。京都・仲津両郡の薪札銀はそれぞれ四九六石八斗八升・五〇三石で、全郡の一七%程度を占めていた(図12参照)。
 
図12 薪札
図12 薪札

《諸種小物成)》 諸種小物成は、狩撈・漁撈などの用益(表4参照)に課した営業税で、一年期限の鑑札を配布し、札一枚につき一〇匁から八分を上納させた。同表に記載する以外にも、立木の善悪と多少によって運上額が異なる炭竃(すみかまど)運上や、栗六升が銀一匁の栗代、真綿一〇〇匁が銀一五匁の真綿代、漆(うるし)二〇目が銀一匁の漆目代があった。諸種小物成の八〇%は村弁で、免札を紛失した時の処罰を恐れたり税額が少額であったことなどから、営業していなくとも代米を上納した。なお、炭山札、鍬風呂札、鍛冶(かじ)炭札、灰札などの草木に関わる営業は、一八世紀後期頃から山方に上納するようになり、山方勘定帳にも記載した。京都・仲津両郡の諸種小物成は、図13に示すように、それぞれ四六三石・七〇九石で、全郡の二九%を占めた。
 
表4 諸種小物成の運上銀さだめ
種類条件上納物単位備考
栗代①銀1匁につき6栗1斗につき、約銀1匁6分7厘
真綿代銀15匁につき真綿100真綿1貫(3.75kg)につき、銀150匁
漆目代銀1匁につき20漆100匁につき、銀5匁
炭竃運上②    立木の善悪と多少により運上銀を納入
鍛冶炭札③1枚につき2 
茶山札   銀高は不明
灰札6 
鍬風呂札2 
干見札3 
  2.8 
石干見札1 
小川筌札5漁撈関係
筌札1.5
蟹筌札1.2
  0.8 
唐網札0.8
投網札2
寄網札2
持網札2
小垂網札10
  2 
川左手札1.2
  1 
歩行曳網札1.2
涙子網札④4
   2 
川札6
瀬張札1
雉子網札3狩猟関係
鴨締札10
鴨四十八羽札10
掛網札5
雀網札1
鳩札2
鉄砲札5
『椎田町史』より引用(原資料は「豊前旧租要略」)
(注)①栗代・真綿代・漆目代などと諸札の内の10分の8は、以前より村弁で納めてきたという。
②炭山運上と同一カ。
③炭山運上、鍬風呂札、鍛冶炭札、灰札などは、山方勘定で上納する(山方勘定帳に記載)。
④『郡典私志』には「綟子網札」と記している。

 
図13 諸種小物成・請木
図13 諸種小物成・請木

《山方運上銀》 この運上銀は定請山銀、当請山銀など一三種類に及び、全体で年間銀六貫目を上納した(表5参照)。創始は元禄年間で、郡代宿久左衛門が山林を調査し面積を測量して、定請山、当請山、仕立山の三種に分類し、山林法を定めたことに始まる。運上銀高は山の広さや下草の状況によって異なったが、個人で願い請けた場合は一年に銀五歩以上五匁以下、村請けの場合は同じく銀三〇~四〇匁であった。
 
表5 山方運上銀
種類(匁)
小倉領(銀)①6,000
(札5歩差)6,300
種類(匁)
定請山銀 
当請山銀 
請木代 
炭山運上② 
踏炭札10.0
鍛冶炭札3.0
灰札6.0
松根札1.5
松枝札2.0
落木札1.7
鍬風呂札③10.0
杓子札6.0
箕札0.3
『椎田町史』より引用(原資料は「豊前旧租要略」)
(注)①10年平均のおよそ見込み。
②立木の善悪と多少により運上銀を納入している。
③古いものは銀小物成に指定されている。

 百姓の持ち山である仕立山(したてやま)では、生育する樹木の伐採と販売は所有者の自由であったが、販売見積額、伐採諸経費、利益を記した計算書に庄屋の奥書と押印を受け、大庄屋を通し山奉行に提出して許可を得、許可が出れば利益額に応じて運上を納めた(小倉藩政時状記)。運上は、木代の一〇分の一であったが、のちに利益の一〇分の一に改正され、藩財政には繰り入れず、諸木植つけの経費に用いた。
《請木代》 請木代は、仕立山をもたない農民が「厩混納屋(うまやこみなや)」(厩つきの納屋)を建築するときに、藩有林の樹木伐採を願い出て安価に払い下げてもらい、規定に従って運上を支払ったものである。「請木荷数」の調査は二・七・一一月に行われ、運上銀の上納期限は一一月一五日であったが、材木の幹廻りの大小により詳細な運上高が決められていた。請木荷数運上の上納先は、郡ごとに決められた荷数までは本土蔵、それ以上は郡土蔵であった。