なかでも一七年の大凶作は、この年の冬から翌年の春にかけて飢饉をまねき、江戸時代三大飢饉の最初のものとしてよく知られている。同年の気象状況は、築城郡の場合、図14に示すように推移した。この図に顕著であることは、五月中旬以降閏五月にかけて雨天続きで、とくに閏五月はほとんど雨の一カ月であったこと、ところが六月には一転して晴天続きとなり、雨天はわずか一日だけとなったことである。このように長期間雨天が続いた後に長期間晴天が続いたことが、大量の稲虫発生につながった。結果として、畠作では大麦が五〇%減、小麦が八〇%減となり、稲作は「皆無(かいむ)同然」となった。
図14 享保17子年(1732)における築城郡の天候
『椎田町史より引用』(原典は安武家文書の「享保17子年 子歳日記控帳」)
(注)上下に天気を記しているのは1日のなかで変化がある場合で、
空白は史料に天候を記載していない場合である。
稲虫の大量発生に対して、藩は七月七日に田一反につき鯨油(げいゆ)二合を入れるよう指示したが、これは遅きに失したと考えられる。安武手永が稲虫対策として虫追いを申請した最初の記録は六月一一日であり、一九日には虫害によって稲作が皆損状態であることを報告している。したがって、七月初旬には稲はすでに立ち枯れ状態になっていたのではないだろうか。七月末には稲作をあきらめ、八月にかけて田に稗(ひえ)や蕎麦(そば)、ごまなどを蒔いている。
麦と米が凶作でほとんど収穫できなかったことから、この年の冬は食糧難となった。藩は、一一月に入ると、手永ごとに米・大豆を五石ずつ、あらめを一〇〇〇把、鰯を一〇石、塩を二石ずつ配布した。一日に一人当り一合を配布したとしても五〇〇〇人分でしかなく、享保二年の添田手永人口五一三五人で考えると、一日分の食料にしかあたらない。また、一二月には、「袖乞(そでご)い」に出るほどに飢えている領民を調査し、一一歳以上の者に粉ぬか五升、干鰯二升、あらめ一升、米五合、大豆・塩各五合、一〇歳以下の者にはあらめと干鰯は半分、その他の品は六割を支給した。これらの救済策は、藩にとっては精一杯の支援だったと考えられるが、領民にとっては、「焼け石に水」としかいえない不十分なものであった。