表7は、京都・仲津両郡の村について、死者数が多い村から順に掲げたものである。同表によると、仲津郡今井村が六二三人で最も多数の死者を出し、これに次ぐのが大橋村の四三六人、蓑島の四〇九人となり、これに京都郡入覚(にゅうがく)の二八五人が続いており、両郡を比較すると、仲津郡に死者が多くなっている。この表を見て気づくのは、仲津郡の上位六カ村が、長峡川、今川が合流する地点付近にある村で、七位の草場を除き、八、九位の稲童、元永が沿岸部に位置する村ということである。つまり、漁業に従事する者が多く、かつ農地の生産性があまり高くなかったと考えられる村、すなわち蓑島を筆頭に沿岸部の村々に死者が多く、大橋のように町立てしており、賃稼ぎで生計を立てている者が多いと推定される村も多くの死者を出したと指摘できる。
表7 本市域村落における享保飢饉の死者数 | |||||
郡名 | 村名 | 死者数 | 郡名 | 村名 | 死者数 |
仲津郡 | 今井 | 623 | 京都郡 | 入覚 | 285 |
大橋 | 436 | 行事 | 208 | ||
蓑島 | 409 | 上・下検地 | 151 | ||
大橋町 | 217 | 長木 | 108 | ||
真菰 | 157 | 大谷 | 104 | ||
草場 | 154 | 下崎 | 104 | ||
稲童 | 140 | 中津熊 | 99 | ||
元永 | 123 | 延永 | 98 | ||
大野井 | 118 | 上稗田 | 95 | ||
矢留 | 112 | 高来 | 92 | ||
金屋 | 98 | 長尾 | 90 | ||
寺畔 | 84 | 吉国 | 84 | ||
天生田 | 81 | 西谷 | 79 | ||
沓尾 | 74 | 下稗田 | 76 | ||
平島 | 74 | 矢山 | 76 | ||
流末 | 66 | 徳永 | 74 | ||
羽根木 | 65 | 福丸 | 69 | ||
宮市 | 62 | 津積 | 59 | ||
馬場 | 61 | 長音寺 | 56 | ||
崎野 | 61 | 草野 | 53 | ||
津留 | 59 | 二塚 | 51 | ||
福富 | 51 | 須磨園 | 44 | ||
高瀬 | 46 | 下津熊 | 43 | ||
竹並 | 46 | 中川 | 43 | ||
小犬丸 | 44 | 常松 | 35 | ||
辻垣 | 43 | 上津熊 | 31 | ||
柳井田 | 43 | 合計 | 2,307 | ||
竹田 | 42 | ||||
道場寺 | 41 | ||||
松原 | 40 | ||||
徳永 | 34 | ||||
宝山 | 31 | ||||
袋迫 | 18 | ||||
長江 | 11 | ||||
合計 | 3,764 | ||||
「筑前豊前享保飢饉史料」(『福岡県資料叢書』第10輯所収)より作成 | |||||
(注)① | 死者数の多い順である。なお下崎村は二カ所記載されており、 もう1ヵ所の死者数を140人としているが、前後の村名から 死者140人の下崎は「下田」の書き間違いと考えられる |
また、表8は、「豊前石高帳」に記載する村高の一石当りの死者数を出し、九段階に分類したものである。この表は、前表から判明した「長峡川、今川が合流する地点付近にある村に死者が多い」ということを、さらに補強するものとなっている。一石当り〇・五人以上の死者を出した村は、すべて長峡川、今川が合流する地点付近にある村であり、死者数では仲津郡において中程より少し上に位置していた沓尾村が、蓑島村に次ぐ第二位になっている。また、矢山、入覚、高来、福丸という山間部も、石当り〇・三人以上の死者を出して、海岸部に次ぐ高さを示していることに気づく。
そこで、一〇〇人以上の死者を出した村と、一石当り〇・三人以上の死者を出した村を、昭和三〇年代中頃の地図上に配置すると、図15に示すように、干拓地や山間部以外にも多くの死者を出した村が存在することに気づく。しかも、現行橋市域の上部と北側半分の地域に、死者の多い村が集中しているのである。ただし、なぜこのような結果が出たか現時点では追求するゆとりがなく、今後の研究の進展をまつものである。
表8 「豊前石高帳」の村高1石当り死者数 | ||
1石当りの死者 | 村名 | 村数 |
23人以上 | 蓑島 | 1 |
3人以上4人未満 | 沓尾 | 1 |
1人以上2人未満 | 真菰 | 1 |
0.5人以上1人未満 | 金屋、矢山、大橋(含大橋町)、長尾、行事、[今井] | 5 |
0.4人以上0.5人未満 | 長音寺、常松 | 2 |
0.3人以上0.4人未満 | 入覚、長木、高来、福丸、下津熊、[袋迫] | 5 |
0.2人以上0.3人未満 | 矢留、吉国、徳永、大谷、中津熊、上・下検地、草場、須磨園、寺畔、馬場、崎野、中川、下崎、辻垣、小犬丸、柳井田、稲童 | 18 |
0.1人以上0.2人未満 | 平島、延永、上津熊、西谷、羽根木、津積、上稗田、流末、竹田、大野井、二塚、元永、宮市、天生田、高瀬、福富、草野、津留 | 18 |
0.1人未満 | 竹並、下稗田、道場寺、宝山、長江 | 5 |
「筑前豊前享保飢饉史料」(『福岡県資料叢書』第10輯所収)より作成 | ||
(注)[ ]内の村(今井・袋迫)は、豊前石高帳に記載されていないので、仮に正保国絵図の石高で計算した。 また松原村は飢饉史料に記載されない。 |
図15 昭和30年代の地図上に示した享保飢饉死者の多い村々
(注)①死者100人以上の村を掲載した
②※印をつけた村は一石当たりの死者が0.3人以上の村である
③前掲の表を参照していただきたい
④元図は昭和35年2月の『用水恒久対策調査報告書』巻末図で、筆者が加工し飢餓死者の多い村に作りかえたものである
なお、福岡藩の研究では、飢饉時の死亡者は、男女では男性が多く、階層では名子や下人といった百姓身分ではない農民とその家族、遊民や浦々の小商人、漁師、日雇い稼ぎの死者が多く、百姓の死者は少ないとされ(「近世福岡博多史料」)、年齢的には老人と子ども、とくに乳幼児の死者が多い(糟屋郡酒殿(さかど)村専蔵寺過去帳)。この傾向は本市域農村にも当てはまるものと考えられる。とくに若い年齢層の死亡は、一〇年後ぐらいから働き手不足の影響を農業に与えたであろうが、その詳細は不明である。
以上のように、享保の飢饉は非常に悲惨なものであった。地域の人々は、享保一七年(一七三二)から二〇年にかけて供養塔を建てて死者の霊をまつり、その後も時々に供養の墓や塔を建てて、霊魂の安寧を祈り続けた(写真3参照)。
享保20年3月建立の 香円寺供養塔(沓尾) | 享保17年建立の 酉福寺供養塔(行事) |
享保20年3月建立の 報恩寺供養塔(元永) | 享保18年2月建立の 法泉寺供養塔(蓑島) |
享保20年3月建立の 養徳院供養塔(大橋) | |
写真3 享保飢饉供養塔 |