天明の飢饉

378 ~ 378 / 898ページ
 この飢饉は天明年間(一七八一~八九)に起こったもので、とくに同二、三年の被害が大きかった。直接の原因は冷害による農作物の不作で、東国の被害が大きく、津軽藩では一三万ないしは二〇万人を超える死者を出し、東国全体では約三〇万人が死亡したとされる。しかしながら、同じ東国でも松平定信の白川藩や上杉鷹山(ようざん)の米沢藩では一人の餓死者も出さなかったとされ、為政者の機敏な対応によっては凶作時でも飢饉に発展しなかったことがわかる。すなわち、飢饉による領民の死亡は、天災というより人災に近いと言える。なお、天明期には、飢饉による餓死だけではなく、疫病がはやったことから、全国規模では実におよそ九二万人もの人口減を示した。
 九州でも、天明二年は冷害によって例年の四分作となり、翌三年には七月の浅間山大噴火の影響もあって冷夏が続いた。天明三年(一七八三)以降における郡ごとの損毛高は、表9に示すようになっており、京都郡では天明三、五、六年に五〇%を超える損害をこうむったのに対して、仲津郡では同三、六年に五〇%前後の損害をこうむったものの同五年の被害は少ない。なお、この年の被害は京都・築城二郡が六〇%近くを占めており、きわめて被害の少ない企救郡を除くと三〇~二〇%代の損毛率であった(豊前)。
 
表9 天明年間の損毛高・損毛率
郡名石高天明3年(1783)天明5年(1785)天明6年(1786)天明7年(1787)天明3、5~7年の平均
損毛高損耗率損毛高損耗率損毛高損耗率損毛高損耗率損毛高損耗率
(石)(石)(%)(石)(%)(石)(%)(石)(%)(石)(%)
京都郡34,271.44223,318.4268.019,956.7058.217,421.1050.810,875.3831.717,892.9052.2
仲津郡40,773.45522,143.2454.313,050.0932.019,324.4047.415,145.6837.117,415.8542.7
企救郡48,832.5332,220.684.52,429.635.06,626.0013.6  3,758.777.7
田川郡56,879.08627,183.4547.818,677.9532.830,005.3052.815,218.3926.822,771.2740.0
築城郡22,844.1078,140.4835.613,002.3456.913,286.4058.27,978.6534.910,601.9746.4
上毛郡20,849.262755.533.65,480.6226.32,404.3011.5  2,880.1513.8
合計224,449.88585,752.0038.273,501.7032.791,833.0040.950,866.1022.775,320.9133.6
御領分10,154.3961,990.0019.63,605.0035.52,767.5027.31,648.0016.22,787.5027.5
(注)1 損毛高は『豊前市史』P.703より引用。原典は「天明8年11月上使御尋之節可申上次第」(大富神社文書77)。
2 石高は寛政元年の巡見使答書にみえる数値。『豊前市史』P.512より引用。
3 筆者の計算によると、天明5年の合計は78,202石3斗3升、損耗率は34%となる。

 天明期の行橋市域農村の状況はほとんど不明であるが、国作手永大庄屋の御用日記から、同三年に裕福な農家が困窮する者へ米を援助したこと、天明期には不作が続いたこと、その原因の一つに稲虫の発生があること、同七年には食料品の他郡への搬出を禁じるとともに、救い米や大豆、麦やぬかなどを支給したことが分かる。